被害者にならない為の知識-精神薬を学ぶ-

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【被害者にならない為の知識】精神医療被害連絡会責任編集
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 「安全な良い薬が出来ました。」「眠れないのは鬱のサイン。」製薬会社と一部の精神科医によって広められた精神科受診キャンペーン。心のケアを旗印に掲げながら、その実態は向精神薬による薬物治療に偏り、医師による誤った薬の処方により沢山の方が薬の副作用に苦しんでいます。こちらのコンテンツでは、最新の論文、医薬品情報などから、正しい薬の情報を厳選し、皆さまに提供いたします。自分の身は自分で守らねばなりません。

【連載:死者に学ばぬ国】中川聡著
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 精神医療の恐ろしい被害の実態を明らかにし、その被害をもたらした日本社会の荒廃の原因を探ります。7年に渡り、この問題に取り組んできた著者が、その過程で知り得た知識を全て皆様にお伝えします。それにより、読者の皆さまのこの問題に対する理解が深まり、この社会で生き抜くヒントになることを願い書きおろしました。


【投稿:薬剤性パーキンソニズム】
*無料コンテンツ

 お母様を変わり果てた姿に変えた切っ掛けは、あるクリニックから処方されたデパスであった。病気の悪化に伴い様々な病院を頼り、裏切られ続けた日々、介護における苦悩、そして最後に得た奇跡のような救い。その赤裸々な日々の記録。老人への向精神薬の投与の危険性、杜撰な医療の実態をお伝えします。

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  1. 2012/07/01(日) 17:18:41|
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睡眠薬の知識-被害者にならない為の知識Vol1-

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  1. 2012/07/10(火) 04:04:59|
  2. 不眠・睡眠薬

はじめに-死者に学ばぬ国-

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  1. 2012/07/10(火) 04:11:09|
  2. 死者に学ばぬ国

薬剤性パーキンソニズム

 老人介護に疲れ、子が親を殺めてしまった。老いた親を道ずれに一緒に死のうと思ったが、介護者だけが逝ってしまい、病弱で老いた親だけが一人残されてしまった。こんな悲しいニュースを、昨今どれだけ耳にしてきたであろうか。
つい最近である、同年代であった私の知人が浴室で首を吊り自殺したことを知らされた。母一人、子一人だった。認知症になった母親を娘一人が介護していたとのこと。聞くところによると、その母親は、被害妄想の症状が出て、娘から虐待を受けていると近所中に言い触らしていたという。
過剰なストレスにより、結果、誰にも相談できず自ら死を選ぶしか手段はなかったのか・・・非常に悔やまれる次第である。
変わり果てた親の姿、意味不明な言動、感情失禁、まさに老獪とはこのことだ。
病気だから仕方がないと理解しつつも、その現実を受け入れるには、家族として中々難しいもの。
また、極まれだが子供が若年性認知症になり高齢の親が過酷な介護を強いられるという逆のケースも中にはある。これには胸が詰まり言葉を失う。

私の父はアルツハイマー型認知症であった。物忘れからはじまり、被害妄想、深夜の徘徊、老人性うつ、汚物を洗面所に並べる等、色々なことはあったが、なんとか母と助け合い対処してきた。一日5時間、介護ヘルパーを依頼した。
幸いと言ってよいかどうか分からないが、認知症を悪化する前に、父は急性心筋梗塞で、平成16年6月22日79歳で他界した。

2年後の平成18年、母は78歳。やや勝気な性格である一方、世話好きで、子供のように天真爛漫で華なことが好きな人である。
高齢な割には、大病もせず医者には無縁で今日まで来た。これからは、2人(母と娘)で旅行を楽しもうと、初めてのクルーズ旅行を予約し心を弾ませていたそんな矢先のことである。

 その年、8月夏の終わり頃、ある日、突然、母の体調に変化が現れた。その後、僅か一年半という短期間で、健常だった母は要介護5という最悪の認定を受けるまで、急激に状態が悪化してしまったのである。一体、母の身体になにが起きてしまったのか?入院先の主治医からは、回復不可能という診断書まで手渡される始末だ。

 翌年の平成19年末。
「悪夢」その言葉が妥当であろう。
体重25キロ。そのやせ細った母の腹部からは胃に栄養分を流し込むチューブ「胃漏」が造設されていた。そんな虚弱な身体でありながらも、母は興奮状態から部屋や廊下を歩き回る。それも一日置きに、24時間就寝しないで立ちっぱなしという異常な行動が続いたのだった。その上、奇声を上げる。
時には「殺してくれ」と、興奮状態になり、母は私に言い放つ。
一体、いつまでこんなことが続くのであろうか・・・。
先の見えない闇というのはこのことだ。

ことの原因は、向精神薬の多量摂取による「薬剤性パーキンソニズム」であった。主治医はこれを見過ごしていた。と言うか、きちんと患者を診ていなかったと私は考える。家族の中で不幸が相次ぎ、体調不良を訴えた母に医師から処方されたのは多くの向精神薬であった。明るく元気だった母は、日に日に衰え、廃人になっていく様子を、私はただ観ているしかなかった。
物忘れ、焦燥感、周徊、パニック、幻覚、せん妄、被害妄想、凶暴、自殺未遂。
壮絶な介護地獄を私は余儀なくされた。

 冒頭で述べたように、実は、この私も過酷な介護に疲れ、死を考えたひとりである。それも母と道連れに。当時、その道しか選択できない程、私は心身ともに疲弊していた。しかし、私の中で、こんな最悪な状態で母を見殺しにするわけにはいかなかった。もう一度、たった一度でいい、母に美味しい物を食べさせてあげたい。最後に「幸せだった」と天国に旅立たせなければ・・・という絶対的使命感が私には残っていた。そうでないと、先に逝ってしまった父や兄に申し訳ないと思ったからだ。

 こんな身を削りながらの介護の中、「奇跡」が起こった。名医に遭遇したのだ。遠回りはしたものの、母にとって、ようやく適切な治療を受けることが出来た。
一般的には聞きなれない言葉だが「無けいれん電通療法」という治療である。脳への電気ショックだった。多量に服用した向精神薬の副作用の為、完全に誤作動してしまった母の脳は、電気ショックにより正常な脳に完璧にリセットされたのだ。この治療で、母は要介護5という最悪な状況から脱出できた。回復不可能と最悪な診断を医師から伝えられ、周囲も半ば諦めていたのにも拘らず、母は見事に地獄から「生還」したのである。今では要支援1と認定を受けるまで回復し、毎日、施設で楽しく過し、時々、私と銀座の街を散歩するほど健常者に戻り、幸せな日々を母は送っている。
3度もの危篤で死の淵を彷徨った母。こうなった原因は一体なぜだろうか? どのようにして廃人から生還に至ったか、詳しく経緯を振り返ってみよう。


  1. 2012/07/18(水) 16:53:08|
  2. 投稿-薬剤性パーキンソニズム-
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初診-悪化-自殺未遂

平成16年6月、私の父は79歳でこの世を去った。まだ涙の乾かない翌年秋だった。2人いる兄の次男が、末期の肺がんで、余命半年と告げられた。
癌に効くというものがあれば、兄の為に色々なものを試した。しかし、その甲斐なく、翌年、平成18年5月、兄は55歳という若さで天国へと旅立った。

当時、母は78歳。無事、兄を天国に送ることができた。さすが、気骨のある年代と私は安堵した。初夏には、母と一緒に京都の祇園祭に行き、とても満喫した時間を久々に過すことができた。しかし、そんな夏の終わり頃、「食べられない。眠れない。」と、母は不眠や食欲不振を訴え、少しずつ顔がやつれはじめてきたのだ。息子の死、そして夏の疲れが出たのだろうと、私は簡単に考えていた。よもや、これから介護地獄がスタートするとは、当時、私は予想すらしなかったのである。

 平成18年9月。大病院で検査をしたものの、これといって悪い結果は出なかった。そんな中、知り合いから、都心の某クリニックを紹介された。うつ病から疲労した脳を休めるという診療をしているF院長がいるというのだ。正直、私は気が向かず反対したが、結局、長男夫婦が母をそのクリニックへ母を連れていった。また、母も早く元気になりたいと藁をもすがる思いだったのであろう。夕方、兄は、母を抱えながらクリニックから帰ってきた。兄曰く「疲れた脳を休めるために、寝ることをF院長から勧められた。」と言うのだ。診断は「燃え尽き症候群。」処方されていた薬を確かめると、一般的に処方されている安定剤と称するデパスだった。私も以前、気分がブルーで眠りにくい時に内科医から処方され、就寝前に1錠服用したことがあった。しかし、日中に服用すると眠気とだるさで全く仕事ができなくなるという始末。生前、高齢の父に寝る前に1錠服用させたが、朝になっても薬の副作用が残り、全身ふらついていたのを覚えている。体格のよい父ですら、高齢のせいかデパスの副作用が顕著にでたのである。薬の効き目が人一倍よい母に対して、F院長が処方した用量はデパス錠一日4回、朝昼夕、そして就寝前。他にレンドルミンを就寝前に1錠、朝夕パキシル2錠づつ、朝夕デジレル2錠処方されていた。

以前、婦人科医である私の主治医は老人にデパスを服用させてはいけないと、日頃から私は聞かされていた。母にも忠告していたのにも係わらず、すでにクリニックで出されたデパスを母は服用し、ぐったりとして家に戻ってきたのである。それからの母の状態は、昼夜逆転し、その上、意味不明な言動が出始めて来た。さっそく、F院長に私は連絡を取り、デパスは母には強すぎるため、就寝前だけの服用に変更したい旨を伝えたところ、すんなりF院長はOKを出した。

しかし、その後も母の状態は悪化するばかりである。母を連れ、兄夫婦と一緒に私も某クリニックを訪れた。F院長は、一見、穏やかで優しそうな人物という印象を持った。しかし、高齢で元気のない母に向かって「あなたのような人は牢獄が向いています。」「私のいるK大学の病院に来ますか?」「家族と一緒にいると、甘えが出てよくない。」と、医師としては到底信じられない言葉を母や我々家族の前で言い放ったのである。それも静かに受診している母に対してだ。母のことに無知な兄夫婦は、F院長の説明に従おうと私に言う。というか、老いた親が煩わしかったという言葉がふさわしいであろう。しかし、私は母を遠く離れる場所に移すことに猛反対をした。老人を家族から離す行為、慣れた環境から遠ざけることは、老人に対して決してプラスにはならない、精神的苦痛を与えるだけと判断したからだ。

平成18年10月。結果、F院長の紹介でS県のR精神科病院にしばらく入院することになった。精神科病院とはいっても、そこは都心の大ホテルのような豪華さで、実に心地よい空間がそこにはあった。マンダリンホテル級といっても過言ではないだろう。医師はスーツ姿、看護師はホテルのユニホームのようなお洒落なものを着用していた。スタッフの対応や食事は良かった。日本初のストレス専門病院として、誰でも軽く利用できる病院とホテルが一体化した精神科病院であった。
そこでは、向精神薬(抗鬱剤、安定剤等)を服用しながら、母はホテルライフのような穏やかな日々を過していた。しかし、周囲には娯楽や観るものなど全くなく、畑の中にポツンと楽山は立っていた。都心の華やかさが好きな母には、寂しさが増幅し、一層不安が強くなった。復帰して早く自宅に戻りたかったのか、母は広い廊下で腕を大きく振りながら歩き、一所懸命リハビリに励んでいた。1ヶ月が経過した頃、「私はもう大丈夫だから退院する。」と母が言い出した。R病院のN院長もOKを出した。

母と私は、同じマンションの上下別々に住んでいる。完治はしていないものの、以前よりは安定していた様子だった。11月下旬。区役所から、介護認定の調査員が来る日であった。認定の結果、要支援1であった。退院後、かかりつけ医として都心の某クリニックに再通院した。私は気が向かないため、兄夫婦が母を連れていく役目となった。しかし、また母の様子に変化が現れてきたのだ。まぶたは半分下がり、目はどんよりとしている。なぜか不安そうである。どうしていいのか、本人もわからないようだ。TV,新聞、雑誌等、何も興味を持たない、関心もない。ニュースを見て人が血を流しているのを見ると「怖い、怖い。」と目を背ける。焦燥感というのだろうか、部屋中を歩き回る母。「止まらない。私、ずっと歩き続けて止まらないのよ。」と能面のような無表情で母は口走る。そんな、母の姿を見て、私は、すでにどうする術もない。一体、どうしたらいいのか、今度は、私が錯乱状態に陥った。「もう、いやー。」と私は大声で泣き叫んだ。

平成18年師走、どんよりと曇った土曜日。持病の鼻炎を患っていた私は、ちょうど治りかかっていた頃だった。母が、夕方、某クリニックへ行くことになっていた。母に昼食を持って行き、そしてリビングに座った。相変わらず、母は食欲がない様子だったが、少しずつうどんを口に運んでいた。しかし、表情に覇気はなかった。私は上の自分の家に戻った30分後、私は母に用事を思い出し、母に電話をした。呼び鈴が鳴っているのに出ない。外出するはずもないのに・・・。階下の母の家に行った。リビングにあった昼食のうどんは殆んど食べていない様子。母は寝室のベッドで横になって、なんやら口走っている。なんだろうと思い寝室に入り私の眼に飛び込んできたのは、真っ赤な鮮血であった。腹部が全体血に染まっていた。割腹自殺だ!ナイトテーブルには、ハルシオン(睡眠薬)を多量に服用したと見られる跡、そして先端に血がべったりとついた包丁がそこにあった。

  1. 2012/07/23(月) 22:08:49|
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介護の日々-見つからぬ出口

混乱の中、私は包丁をキッチンへと持って行った。そして119番で救急車を呼んだ。自分でも何がなんだかわからない状況で、頭が真っ白になり、身体が小刻みに震えていたのを覚えている。
救急車が到着し、一緒に刑事も数人来た。一人の刑事が、私にことの経緯を聞いてきた。まず、包丁のことを聞かれ、私はキッチンへ持って行き、包丁にべっとりと付いていた血を洗い流したことを刑事に告げた。その時、私は包丁を現場から動かしてはいけないことに気が付いた。動転して私は何も考えずキッチンへ持って行ったことを刑事に詫びた。その時、TVドラマで見ていた事情聴取を思い出し、もしかして私が?私が疑われているの? 私は、今までの経緯を淡々と刑事に語った。その時だった。兄が血相を変え到着した。救急隊は、母をタンカに乗せ運び出そうとしていたその矢先、今度は違う刑事が、事の経緯を私に尋ねてきた。兄は焦った様子で、「そんなことは後にしろ。早くエレベーターに乗れ。」と声を露にした。刑事は、「マンションの管理人がパトカーも一緒に来たことに不思議がっていますが、上手く話をしておきました」と私に囁いた。

 自宅近くのN病院に母は搬送された。多量に出血していたせいか、失血死の恐れがあるため、一刻の猶予も許されない状況であることを医師から告げられた。緊急手術が始まりICUの待合室で呆然と座っていた時だった。これまた違う刑事が病院に訪れ、再度、同じ事を聞かれうんざりした。
「ご協力ありがとうございました。」と言って刑事は帰っていった。
事情聴取3人目、これが最後だった。

 治りかけていた鼻炎が悪化したのか、私は体中がゾクゾクとして体を休めたかった。午後3時半頃、長男家族が病院に到着した。私は、いったん自宅に戻りベッドで横になり暫くした頃、兄から電話が入った。「おふくろ危ないようだ。覚悟しておけよ。」私はどん底に突き落とされたような気分になり、気が付いたら、柱にしがみつきやっと立っていた状態であった。体中が凍りつき目眩を起こし、ソファーに腰掛けた時だった。近所に住んでいる友人が私を心配して駆けつけて来てくれ、温かいお茶を入れてくれた。胃に暖かいものが入ったことで、私は精神的に落ち着きを取り戻していった。友人は、一緒に病院へ行こうと言ってくれたが、私は恐怖で拒んだ。「そんな弱気でどうするの。私も一緒に行くから。」と友人に説得され、一緒に病院へと戻った。甥姪は、長椅子にぐったりとしていた。30分後、母はオペ室から出てきた。人工呼吸機を付け、母の顔は雪のように真っ白であった。後に医師2人がオペ室から出てきて「助かりました。」という言葉を聞き、兄は「良かった!」と安堵した表情を浮かべた。2か所あった傷は深いかった為、出血が多く輸血を必要としたという。幸い、内臓には傷が付いていなかったことで、母の命は救われたと医師から報告を受けた。

 翌日、ICUにいる母を見舞った。酸素吸入をし、手には自殺防止の厚いミトンの手袋をしていた。母は私を見るなり恐ろしい形相で「なんで私を助けた!」と睨みつけた。ショックのあまり私は30秒程でICUを出た。助けたことを逆恨みされた私は、母に対して怒りと悲しみでいっぱいになった。ズンとした思い気持ちを背負いながら、翌日も病院へ向かった。母は身体を拘束されていた。腹部を縫合したばかりで身動きをしてはいけないのにも拘らず、足をバタつかせて困っている。と看護師から説明を受けた。さらに、深夜には奇声を上げ、周囲の重篤患者には迷惑をかけているのを知りつつも、私にはどうする事も出来なかった。相変わらず怖い形相をしている母。すると、いきなり悲しそうな表情を浮かべ「お願い!ここから出してちょうだい。」と私に向かって手を合わせる母の悲しい姿。「ごめん。それはできないの。」「傷口が固まるまで1週間我慢して」と説明して、私は後ろ髪を引っ張られる思いで病院を後にした。
翌日、病院へ向かった。母はベッドに座った状態で歯を磨いていた。能面のような無表情な顔つきで、それも、歯ブラシを裏側にしながら歯を磨いている母の姿はあまりにも悲しかった。 

 待ち望んでいた1週間が経過し、あと数日で平成18年も終わろうとしていた。結局、S県のR病院に再入院することにした。母は、N院長に「変なことをしてごめんなさい」と頭を下げ、その顔は青白く、体はやせ細り小さくなっていた。母をお風呂に入れた時だった。腰の周り、腕の周りには赤黒い多数の内出血の跡があり、拘束された時の痛々しい傷跡が残り、私は胸が締め付けられる思いがした。精神的に少しずつ安定してきたものの、最初の入院とは違い、母は本当の「うつ病」になってしまった。と私はそう感じた。天真爛漫で気丈な母がなぜこんなことに・・・。元気な頃の母を思うと、そのギャップは、娘として現実を受け止めることが到底出来ない、押しつぶされそうな感覚であった。私は焦った。毎日、1時間半掛けて母のいる病院に通い、母を外へ連れ出し、病院の周りを歩くリハビリからスタートした。明るい気持ちにさせようと、好きだった歌を一緒に歌いながら、お互い必死に努力し、時間をかけて鬱からの脱出を試みた。

夕食は、病院食をいつも一緒に食べることにした。その時、またもや母の身体に異変が出始めてきた。手が震えるため、箸やスプーンが持てないのである。それでも、必死に母は口に食べ物を運ぼうと努力したが「だめだ!」と途中で食べ物を溢してしまい、母は苛立ち「もう嫌!」と言ってスプーンを投げつける。母を宥めながら、私は母の口へ食べ物を運んだ。人の手助けがないと何もできなくなり壊れていく母。母はそんな自分を受け入れられないという精神状態に追い込まれていった。N院長からは、容態が回復に向かわない母を診て、「色々と薬を変えても、一向に良くならない。」と語るだけ。又、婦長からも「お母様は重症です。」と言われる始末。こんな状態が半年近く続いた。

 母を入浴させた後、また新たな戦いが始まった。下着の身に着け方が分からないというのだ。一度に3枚、ちぐはぐに下着を着ける母。私がアドバイスをしても一切、耳をかさなくなり、ひとりで困惑しながら、やっと納得するまで30分もの時間が必要になった。下着を重ね着し、その上、変な拘りを持つようになり、上下合わせて、下着だけで200枚以上はあった。それを全部広げだし、下着を一枚一枚チェックするのである。それをまた全部整理し、片付けるのが私の日々の仕事であった。

  1. 2012/07/23(月) 22:11:25|
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有名H病院に転院-強引に退院

 平成19年5月、GWに差し掛かかり、自殺未遂から半年近くになろうとしていた頃、N院長から退院の話があった。とは言っても、母は完治したわけではない。以前、健常な時には48キロあった体重が、その時には39キロまで減少し弱々しくなっていた。相変わらず表情には笑みもなく、身体全身も固く強ばっていた。周囲の入院患者達も、一時的に安定し、退院をしたものの、すぐに病院に戻ってくるのが、そこではそれが普通に行われていた。しかし、その繰り返しというのは、患者本人だけではなく、携っている親族等、誰もが不安をいつも抱えている。

 結果、孫と一緒に住むということで、母は6月に退院し、長男夫婦と同居することになった。理由は、「娘が怖い」と、母は私から虐待を受けていることを、兄夫婦に伝えたというのだ。被害妄想が出始めていたことを分かっていながらも、私のショックは相当なもの。涙が止まらなかった。
後に分かったことだが、夜になると、毎晩、母は兄に「娘が怖いから助けて。」というSOSの電話を入れていたと言う。日中には「毎日来てね!」と、私の帰りを惜しむように、母はエレベーターの前まで見送りに来ていた。昼と夜では、全く違う母に豹変していたことが後で分かった。
母の介護を甘く考えている兄夫婦には、重病な母を当然看れるはずがなく、すぐに悲鳴を上げ、介護を投げ出すと私には先が読めていた。
案の定、1ヵ月半で事件は起きた。

 平成19年。忘れられない猛暑の8月。「お母さんが家政婦の首を絞めた!」と、弁護士から連絡が入った。幸い、家政婦は大事に至らなかった。聞くところによると、兄夫婦は、母を看れず、近くにマンションを借り、家政婦2人を雇い、母と3人で共同生活をさせていたとのこと。慣れない土地で、まったくの他人との生活など、老いて、尚且つ、重症な状態にあった母には、当然、不可能に決まっている。事件後、困り果てた兄夫婦は、また、某クリニックのF院長を訪ねたのだ。診断は「統合失調症。」 F院長から診断書を手渡された兄夫婦は、M区のJ病院へ行ったそうだが、暴行を起したということで、入院は門前払いをされたとのこと。結果、J病院から、都下のH病院を紹介され、入院することになった。と弁護士から説明を受け、早速、病院へ駆けつけた。驚いた事に、そこは俗にいうキチガイ病院だった。

 平成19年8月12日。H病院の薄暗い中廊下を歩き、エレベーターで最上階へ上がった。閉鎖病棟のため、病棟へ入るのに、ベルを鳴らし、身元を確認される。病棟に入った瞬間、なんとも言えない嫌な空気を感じた。母は、そこでは高額な個室に入っていたが、それにしても、S県のR病院とは違いひどい部屋であった。ユニットバスには洋式トイレが設置してあったが、段差があり危険なため、ユニットバスには鍵が掛けられ使用することが出来なかった。仕方なく廊下にある男女共同のトイレを使用するしかなかった。
母は、栄養失調から状態が悪化し、ベッドに横たわり点滴を受けていた。目はくぼみ頬がげっそりとこけ、見るも無残な姿だった。主治医としてA医師を紹介され、ソーシャルワーカーも含め、今後の治療方針を説明された。「これから患者に合う薬が出るまで、色々な薬を試します。」という極めて簡単な説明で終わった。今度は、H病院に足しげく通院することになった。

 隣の部屋には2年も入院をしている老婆がいた。新しい入院患者が気になるのか、廊下を歩くたびに、母の部屋の扉を開け覗き込むのだ。
実に気味が悪かった。また、時より、悲鳴のような声が何処からとなく聞こえてくる。不気味!!看病している私までも気分が悪くなった。向精神薬を投与されているせいか、患者の表情は、皆、能面の様な独特な顔つきをしていた。更に、向精神薬の副作用のせいか、あちらこちらで転倒する患者を目にした。
ベッドから頻繁に落ちる患者さんは、ここでは日常茶飯事。母も2回転倒し、一度目は鎖骨にひびが入り、しばらく腕を吊るしていた。2度目は後頭部を強く打ったが、幸いレントゲン撮影で異常はなく一応安心した。その時、母に不思議な現象が起こった。ベッドに横たわっていた母が、元気だった頃の母に戻っていたのだった。気のせいかと思ったが、話し方や声のトーンが元に戻っている。心配して一緒に、付き添って来た従姉妹もその光景には驚いた様子。私は「後頭部を強打したため、ショックで脳が元にもどったのかしら」と、従姉妹に冗談を話したぐらいであった。しかし、その期待も虚しく、翌日には、また不安状態の母に戻っていた。

 週2回、入浴の日であった。私は必ず母を入浴する前に病院へ着くようにした。というのは、この病院では入浴前に患者に検温チェックをしないのである。入浴の日、私は母に微熱があることに気付き、看護師から体温計を借りた。37.3度の微熱があり、それでも入浴させようとするのは、老人には非常に乱暴な行為である。老人にとって肺炎は怖い。病院には委ねることは出来ないため、入浴の良し悪しは、いつも私が決めることにした。

 9月中旬、病棟に入り、母の異様な姿が眼に入ってきたのである。ナースステーションで母は身体をひどく震わせ、看護師に支えられていた。困惑していた看護師から、薬の量を増やしたら、母の状態がおかしくなったと私に説明してきた。薬の名前を聞いたところ「リスパダール。」と答え、私には初めて聞く薬だった。気分を落ち着かせる薬だそうだが、母は、入院中とても静かにしていたのになぜ?と私はひどく疑問と不信感を病院に抱いた。しかし、ここから母と私の地獄の介護がまた新たにスタートしたのだ。

 病室に入ると、母は椅子に腰を掛けていた。それも頭を下げたままで、小刻みに身体が震えていた。その姿勢で一日中いると母は言う。呼吸が苦しいという母に、頭を上げるようにと私が言っても頭を上げられない。まぶたが完全に下がり、眼も開けていられない状態。唾液を飲むことも出来ず、口からダラダラと涎を流し続けていた。当然、食事など取れない状況にあった。日に日に母は痩せていき、等々入れ歯まで外れてしまった。これでは、咀嚼もできないと、私の頭の中は混乱と不安でいっぱいになった。身体全身が強張り、歩くことも出来ず、一日中、身体を震わせている母。
最悪な事に、私の名前すら思い出せなくなったのだ。私に向かって「あきちゃん、あきちゃん」と、父の妹の名前を言い続けている。私は胸が苦しくなった。
ひたすらは母「息苦しい。」「息が出来ない。」と、私に訴えてきた。医師に伝えても異常はないと答えるだけだった。もはやどうすることも出来ない状況であった。ナースステーションまで助けを求め、なんとか一人で歩いていったのであろう母は、「息苦しいのです。助けてください。」と必死に看護師に助けを求めているのにも拘らず、スタッフが全員が無視をしているところに私は病院に到着し、その光景を目の当たりにしたのである。
気が狂った老人の戯言とでも思っているのか・・・。ここでは、このようなことが当り前のように起きていた。なんて恐ろしいところだ!と私は思った。

 母は薬の副作用から口渇を訴え始めた。一日中、深夜にも病室の厨房に立ち、水を飲んでいると看護師から説明を受ける。病院は、部屋中が水浸しになったと言い、厨房の蛇口を外されてしまった。水分を多量に取っているせいで、母の足はひどく浮腫んでいた。毎日、足先から太ももにかけて、循環がよくなるように私はマッサージを続けた。ドリンク用として持参したミネラクウォーターは、すべてのペットボトルのフタを外し、水は半分まだ残っている状態で部屋中に散乱していた。ペットボトルの水を飲むことすら、なぜか母は怖がった。挙句の果て、母は廊下にあるトイレの水を飲み始めたのだった。

 母の異変で、周囲の患者の人達も心配してくれた。副作用からであろう、皆、能面のような顔つきをしながら「お母さん大丈夫?」「お母さん苦しそう。」と私に近づいて呟く。なによりも、隣の病室にいる不気味な老婆までが私に近づき「お母さんを助けてあげて。」と意思表示してきたのだ。これには流石の私も驚いた。今まで一度も声を発生したことがないのに・・・。
さらに、いつもお部屋のお掃除に回ってくる叔父さんが「お母さん、落ち着いていて元気だったのに、なぜこんなことになったんだ!」「お母さん、トイレで水を飲んでいるよ。」「ここの患者さんは、口が渇くみたいで、他の階でも若い人達がトイレで水を飲んでいるんだ。」と、お掃除の叔父さんは悲しい表情を浮かべ、正直に話してくれた。

 この病院にいると母は殺される。一刻も早くこの病院から出そうと、私は決心した。転院のための病院探しには実に苦労した。どこの大病院も、精神科病院からの転院は断られる始末だ。都内に老人専門の病院を2件見つけ、藁をもすがる思いで、K区のJ病院とI区のT病院に電話をした。いずれも3ヵ月待ちと言われたがキャンセル待ちを予約した。H病院の主治医にセカンドオピニオンを希望するということで、診断書を依頼した。診断書には、「色々手を尽くしたが回復は不可能」と記載されていた。

 平成19年9月下旬。T病院から、キャンセルが出たと連絡があった。予想していたより早かった。母は、微熱がずっと続いていたため、私が母の代理で精神科を受診した。外来のY医師に、今までの母の経緯を詳しく説明した。Y医師は親身に私の話に耳を傾け、「それは薬の副作用ですよ。」と正直に答えてくれた。薬の処方の多さや、副作用に疑問を抱いていた私は、その時「やっぱり!」と確信した。Y医師は「主治医の先生に報告書を書きますから、もう一度主治医と話し合ってください。」と、親切な対応をしてくれた。嬉しかった。やっと本物の医師に出会えたと、光が見えたような気がした。不思議だが、Y医師なら母を絶対に治してくれると、その時、なぜか私は直感した。
残念ながら、病室は満室で直ちに転院は難しいと断られたが、取りあえず、手順を踏み、H病院で主治医に相談することにした。

 H病院での病室。主治医のA医師が母の病室を訪ねて来た。私の顔を見るなり「あんた行ったの?」と、不機嫌そうな表情を浮かべ言葉を発した。それ以外はなにも話さず、嫌な空気が流れる。Y医師からの報告書が、余程お気にめさなかったようである。報告書には『ご家族のお話によれば、以前より特に流涎、仮面様顔貌、動作緩慢が増えたことを心配されておられました。ご本人を診察していないため断定できないと断った上で、薬剤の影響もありうると説明しましたが、一方で現在発熱が続いており、誤嚥性肺炎や、その基礎となりうる認知症の有無も含め、もう一度主治医と相談されるようお勧めしましたところ、納得されました。』という内容であった。A医師は非常勤で、週2回は、この病院へ出勤する。私は、毎日、病院へ来ているが、A医師が母をきちんと診察している姿を見たことは一度もなかった。
一患者の家族に対して、医師という責任ある立場でありながら、なんという稚拙で無礼な対応であろうか! 私は呆れて言葉も出なかった。その頃、凶暴性がやや出ていた母は、病室を出るA医師に対して「バカヤロウ-」と言い放った。母の暴言には驚いたが、私の言いたいことを母は代弁してくれたと褒めてあげた。

 私は、顧問弁護士に、母の事を相談した。すると、顧客に良い精神科医がいる聞き、早速、L区の某クリニックのE院長を紹介していただいた。
書物でE院長のプロフィールを読んで私は感動した。大学の医学部に在学中、同級生がうつ病でデパートの屋上から飛び降り自殺をした。その同級生は自死する前、当時、同級生であったE院長に遺言書を残したというのだ。「うつ病患者の苦しみ、そしてその遺族の悲しみを君なら理解できる。精神科医になって苦しんでいる人々を助けてほしい。」という内容だったそうである。その重い十字架を背負ったE院長は精神科医という職業を選択し、さらに宣教師としても従事した。自死遺族会グリーフケアという団体を結成し、頻繁に会合を開き、今尚、人助けに力を注いでいる。

 E院長に、今まで母に処方されてきた向精神薬の薬歴を観てもらった。
「高齢者に対してこんなに沢山の薬を与えてはいけない。」と、E院長は頭を抱え、驚いた表情を浮かべた。しかし、それよりもE院長は私の体を心配してくれた。当時、私は心身ともにボロボロになっていた。夜は、毎晩、眠剤がないと不安で眠れなかった。母の介護に関して、兄夫婦とは見解の相違から、一切、私とは没交渉になっていた。そんなこともあり、E院長の計らいでクリニックのデイサービスをしている精神福祉士を私に付けてくれたのだ。今まで、ずっと母を一人で介護を続けてきた私にとって、とても有難く感謝の気持ちで一杯になった。

 私は、早急に、母をあの恐ろしい病院から連れ出す定案をした。入れてくれる病院がなかったら、私が家で母を看るという覚悟を決めたのだ。主治医としてE院長に家に往診に来ていただくようお願いした。とにかく一か八かだった。H病院の主治医とソーシャルワーカーに、母を退院させ家で看ることを伝え、退院に向け準備をすることにした。今迄、ここまで強行に出た家族はいなかったようで、病院側はとても驚いていたことを、後で知る事になった。
退院の前日、従姉妹も交え、私と一緒にA医師からの説明を聞くことにした。「お母さんに色々薬を試しましたが、すべて効きませんでした。」「お母さんはうつ病ではありません。」と驚き発言。精神疾患ではない事を告げた直後、A医師は「あんなに悪くなって大変でしょうから、最悪な時の頓服も出しておきましょう。」という始末。退院時に処方された薬は、日常の薬と頓服をも含め、山のように手渡されたのである。うつ病ではないと診断されたのにも関わらず、なぜ?多量の向精神薬を処方されなければならないのか・・・。すでに、A医師には信用をまったく失っていたので、私は何も反論する気すらなかった。

 平成19年10月10日。母を移動するため、タクシー会社からリクライニングシート付きの車を頼むことにした。精神福祉士の人が手伝いに来てくれた。道中、母は息苦しいと口走っていたが、高速を使い45分程で家に到着した。久々の我が家。母を父が祭られている仏壇へ誘導した。まぶたが下がり覇気のない顔。母は、震える両手を仏壇の前で合わせていた。父はどんな想いで、母のこの姿を見ているのだろうと思うと、実にやるせない気持ちになった。

 久々、家に戻った母は安心したのか、私の部屋のソファーベッドで熟睡した。
痩せて入れ歯を装着できなくなった母の為に、私は苦心しながら夕飯の準備をした。ほんの少しではあったが、美味しいと言いきざみ食を口にした。H病院での不安そうな母の顔とはまったく違い、穏やかな安堵の表情を浮かべていた。翌日、午後から、精神福祉士の方が、様子を見に家を訪ねて来てくれた。私は2時間という決められた時間内で、食料の買出しに出かけた。帰宅後、やはり母は口が渇くせいか、飲み物を頻繁に要求してきたと福祉士から伝えられた。母は、不安で福祉士にずっと寄り添っていたとのこと。なんとか一日が終わった。
  1. 2012/07/23(月) 22:16:14|
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総合病院へ転院-またしても裏切り

 その翌日、帰宅して3日目だった。朝6時半、しっかり熟睡して目覚めの良かった私は、隣に寝ている母の部屋に入り、様子がおかしいのに気が付いた。母は、苦しそうにベッドから身を乗り出し、息苦しいと言ってうろたえていた光景が目に入った。検温したところ38.5度の高熱。慌てて救急車を呼んだ。救急隊が母の人差し指から、体内の酸素量を測っていた。78という数字が耳に入ってきた。正常は95以上あれば問題ないそうだ。刻一刻、容態が悪化する状態であった。救急隊は、入院していたH病院に戻ることを勧めたが、私は断固として断り、救急隊員を困らせた。興奮していた私は「あの病院へ行ったら殺される!やっと退院させたのに!」と、声を荒げてしまった。

 平成19年10月12日。
私の我儘を受け入れてくれた救急隊員は、必死に病院を探し、結果、近くのS病院に辿り着いた。母を診察した若い女医から、最悪の事を考えてほしいと待合室で言われた。「またか」と思い酷く落胆した。もしこれで母と最後になったとしても、2日間、母と時間を共有でき良かった、と思うよう無理に言い聞かせていた自分がいた。一人で待合室にいるのが不安だったのか、無意識にボリボリと爪のネイルを剥がすという異常な行動をしていた。とにかく不安でじっとしていられなかった。

1時間が経過した頃、母が安定してきたと医師から嬉しい説明を受けた。
早速、入院の手続きをすることになった。病棟に入り、酸素マスクと点滴の処置を受け、静かに母は眠っていた。丁度、その時、E院長が心配して病院に駆けつけてくれた。若い2人の呼吸器内科の医師が担当(T医師、O医師)ということで病室に入ってきた。私とE院長は別室に呼ばれ、医師2人に今までの経緯を詳細に説明した。恥を偲び、母はそれまでに自殺未遂や暴行に及んでしまった辛い事実を、私は2人の医師を信じ伝えた。向精神薬を服用してからは、母は別人の様に変わってしまったことや、H病院でリスパダールを処方されてから、さらに症状が悪化し、今まで以上に酷い状態になったことを、私は正直に説明した。医師2人はきちんと理解してくれていると、その時、私は思っていた。それから、肺のレントゲン写真を見ながら医師は説明を始め、H病院を退院してよかったとO医師が言い始めた。「右肺の殆んどが真っ白です。」「そのために呼吸困難になっているのです。」「はっきりとは断定できませんが肺がんの可能性もあります。」と、T医師から深刻な説明を受けた。兄の次は母が肺がん?煙草も吸わないのに?O医師からは、リスパダールは単なる抗不安剤で危険な薬ではないと言ってきた。O医師の説明には反論しなかったが、明らかに母は、向精神薬の多量投与で悪化したと私は理解していた。人間は、皆、マニュアル通りではない。年齢、体格、体質は、皆、違う上、副作用の症状も異なるはずだ。そこは、まだ若い医師だから仕方ないと、私は特に反論はしかなかった。

翌日、主治医のT医師は「抗生剤が効いたようで、右肺の影が小さくなりました。」「良かったですね。肺がんではなかったです。」と説明があり、私は安堵した。病室で、母は静かに眠っていた。入院3日目、T医師が「ちょっと患者さんに困っているんですよ。何とかしてください。」と、昨日とは違い、怪訝な顔で、私に言葉を発してきた。病室に入ると、母はまた不安そうな表情を浮かべ、身体中を震わせていた。今後も懸念される中ではあったが、私はやっと一般的な総合病院に入院ができた喜びから、これからは他の診療科と連携しながら、母には適切な治療が受けられるだろうという、一縷の望みを持っていた。

 ところがその期待は、見事に裏切られてしまったのである。主治医となった2人の若い医師から、母と私はイジメに遭ったのである。自殺未遂、暴行行為に及んだ狂った老人なんか早く出て行けと言わんばかりの嫌がらせを受けたのだった。母は肺炎も落ち着き、熱も下がり容態は安定していた。しかし、まだ食欲はなかった。T医師は「もう食べられるはずなのに、食べたくないんだろう。死にたかったんだから。」と、心ない言葉を私に浴びせ、ふてぶてしく病棟の廊下を歩いていった。老人は若い人とは違い、回復には相当な時間が必要である。やせ細り、入れ歯を装着できなくなった母にはとろみ食が出たが、見るからに食欲失くすものであった。売店で、口当たりの良い栄養剤のゼリーやヨーグルト、プリンを少しずつ私は母の口には運んだが、やはり飲み込むことに非常に過敏になり、喉を通すことが非常に難しい状況になってきた。

 既に、物事の判断すら厳しい状態になった母。後見人制度等の手続きの為、医師との面談と診断書を書いてほしいと弁護士から話があった。そのことをT医師に伝えたところ、いきなり高飛車に「弁護士を病院へ連れてくるなんてありえない。今までそんな話聞いたこともない。」と意味不明なことを言い出し、私は困惑した。弁護士とは、父の時代からのお付き合いで、今回、母へのお見舞いの意味もあったからだ。その事を説明しても「弁護士に声をかける前に、こっちに声をかけるべきだろう。」「こっちは忙しくて時間がない。」「そんな責任のある診断書なんて怖くて書けるか!」と、目を背けながら乱暴な言葉を私に投げつけるように発した。私は恐ろしくなり、なんだか訳も分からず、私はT医師に謝罪したのだった。すると「あんな精神科医(E院長)を連れてきて失礼じゃないか!」「一日だけ顔を出して医師として無責任だ!」と、T医師は、なぜか怒りまくっていた。
E院長は、出しゃばってはいけないことは十分に理解した上で、私の心身を案じて病院に駆けつけてくれたのだ。それもたった1度だけ。
病院に世話になっている間は、煮えくりかえった感情を、私はグッと腹に抑えることにした。精神科病院からの転院というのは、これだけ世間から偏見な目で見られ、冷たい対応をされるのだと、痛いほど思い知らされた。

 翌日、母に食事が運ばれなかった。即座に、T医師の嫌がらせと直感した。そこに研修医のO医師が病室へやって来た。昨日のT医師とのやり取りを、既にO医師は耳にしていた様子を感じた私は、「私の言い方に誤解を招くことがあったようで・・・ごめんなさい」と、一応謝罪した。正直、私は誤ることはないのだが、万が一、母に嫌がらせをされたら困るので、とにかく入院をしている間は、低姿勢に行動する方が利口だと思った。
「母を絶対に救う」その一心で行動していたからこそ、どんな事でも耐えることが出来たのかもしれない。

 入院して10日程経過し、母は少しずつ食欲が出てきた。病院食は美味しくないので、私は母の好きな物、栄養価の高い高カロリーの物を作り、ミキサーで粉砕し、昼、夜の2食分を病院へ持参した。さすがに朝食までは準備ができないため、病院から出る牛乳やジュースを飲んでもらうことにした。
入れ歯がないために、ドロドロしたものを私はスプーンで母の口に運んだ。
味が良かったせいか、よく飲み込み、ほんの少しではあったが、母は全体的に肉付きがよくなり嬉しかった。

僅かながら、順調に回復していた10月下旬頃。またもや母は、高熱を出してしまった。嚥下性肺炎と診断されたのだ。再々度、又、母は食べられなくなり、点滴で栄養を送る事にした。多くの向精神薬を服用した副作用のため、母は飲み込む力が衰え、悪化する一方であった。そのため、痰を自力で出すことすらできない。T病院に入院してからは、鼻と口から痰を看護師に吸引してもらっていた。幼少の頃から、母は慢性副鼻腔炎であった。吸引しても、また直ぐに痰が出る始末。呼吸困難になる為、頻繁にナースコールを押さずにはいられなかったのであろう。その行為は、病院からとても煙たがられてしまった。患者は、母だけではないので、忙しい中、私も申し訳ない気持ちで恐縮した。
しかし、痰が喉に詰まり、息苦しくなるのが、母は怖かったのだと思う。病院と母の間に挟まれ、私は常に気苦労が耐えない状態で、神経が磨り減っていた。

 秋も深くなった11月。熱も下がり、そろそろ点滴を外してもいいとO医師から説明を受けた。しかし、喜んだのも束の間、これまた高熱が出て、今度は母の意識が朦朧としてきたのだ。医師達も焦った。しばらく原因は分からなかった。もう点滴も外せなくなった。2~3日経った頃、T医師から、おそらくインフルエンザでしょう。そうなると、タミフルを使用することになりますと淡々と語った。

久々に区役所から認定の調査員が病院へ訪れた。というのは、兄夫婦のところへ母が行っていた頃、認定の継続手続きをしていなかった為、途中で中断されてしまったのである。再度、申請書を提出し、調査の結果、要介護3と認定された。週末の日曜日、看護師が見たこともない点滴を準備していたのが目に入った。看護師に何の薬か聞いてみた。すると「先生からまだ伺っていないのですか?」「お母さまはMRSAという感染症にかかりました。」と説明をされたが、何のことかさっぱり理解ができなかった。帰宅後、早速PCで「MRSA」を検索した。院内感染の恐怖と書かれ、黄色ブドウ球菌のことだった。黄色ブドウ球菌は、鼻、喉の粘膜に多くいる細菌であったことが分かった。
私は、主治医から「MRSA」という深刻な病気に母が感染した事を、一切、知らされてはいなかった。というか、医師達は感染症になったことを、親族には、知られたくなかったと理解する方が正しいだろう。

母を見舞いにきた友人に伝えたところ「やっぱり!」という返事が返ってきた。母の鼻、口から痰を吸引する際、看護師は、一切、消毒していなかったのに疑問を感じていたと友人言う。確かに、吸引に使用していたカテーテルは、吸引する度ごとに消毒はしていなかったのは確かだった。しかし、准婦長だけは、丁寧にカテーテルを扱い、慎重に消毒を行っていたのは覚えている。准婦長以外は、皆、杜撰で怠慢な看護師が多かったのは事実。使用したカテーテルは、そのまま水の入ったビーカーに突っ込んでいた。そして、それをまた使用するのである。病院でありながら、不衛生としか言いようがない。
母のように高齢で、体力が弱っている場合には、肺炎を避けるため、病院は隔離しなければならない。と友人は教えてくれた。病とは殆ど縁のなかった私には、聞くことすべてが始めてで、目からウロコ状態。言われてみれば、病棟の廊下にブルーの大きいゴミ袋があったことを思い出す。そのゴミ袋は、毎日、いっぱいになり、それには感染症と大きく書かれていた。ということは、ここでは多くの患者が感染していたのか!? こんな大病院までもが、こんな杜撰な事を・・・。
既に、感覚が麻痺していたのか、医療機関を一切信用しなくなっていた私には、何が起きても驚くことはなかった。

  1. 2012/07/23(月) 22:20:23|
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総合病院での経過・退院

 平成19年12月師走。母は、もう1ヶ月以上も食事を摂っていない。ベッドの中で小さく痩せ細っていた。点滴だけの栄養しか摂取できない為、皮膚もカサカサになっていた。体中のいたるところに、床ずれができていた。特に腰のあたりは水ぶくれになる程ひどかった。ベッドに横になっても、椅子に座っていても、身体に物があたるところはすべて苦痛を伴った。私の介護は、すでに限界を超えていた。私は自営の為、時間は自由になったが、流石に、他人に委ねることを考慮していかないと、私が寝込む事は、絶対に許されなかった。
毎日、午後2時から6時まで母に付き添っていた。その後は、介護ヘルパーに一時間半、母を看てもらうことにした。寂しがりやの母にとっては、病院の個室は暗く冷たく、そして長い夜が始まる地獄の空間。わずか一時間半だったが、プロに毎日来てもらえることは、私にも精神的な安らぎを持つことができた。感情失禁という症状が出る母に付いていけなかったのか、2人いるヘルパーのひとりは、直ぐに辞めてしまった。残った一人のヘルパーはベテランで、老人の扱いには、実に手慣れていて助かった。また、介護している私にも心強いサポートをしてくれた。本当に感謝の気持ちでいっぱいになった。また、生前、父の無二の友人であった歯科医のC先生から、大阪からずいぶんと励ましのお電話をいただいた。子供の頃から姉妹のように育ってきた同じ歳の従姉妹は、家庭がありながらも時間を作って協力してくれたことが、私にとって大きな支えであった。

 病院のエレベーターにヘルパーと一緒に乗っていた時だった。中年の粋な着物を着ていたご婦人が、ヘルパーを見るや、いきなり声を掛けてきた。聞くところによると、中年女性の高齢のお母様を、そのヘルパーは、以前、介護していたとのこと。女性とは同じフロアーで下りた。突然、女性が「主治医がとんでもないのに当たった」と口走った。主治医の名前を聞くと、母の主治医と同じT医師だった。私は一瞬、良かった!家(うち)だけではなかった。と妙に嬉しかった。 女性に事情を聞くと、高齢のお母様は肺炎を起し、緊急入院したとのこと。しかし、末期の肝臓癌からいつ何が起きてもおかしくない状態であったと言う。それでも少量ながらも、お食事は美味しく食べられるとのこと。そこで彼女は、近くのK病院ならホスピスがあり、そこへ転院したいとT医師に相談したそうだが、T医師からは「ホスピスは若い人がはいるところ。認知症の症状がある高齢者が入るところではない。」と、冷たくあしらわれてしまったようだ。余程悔しかったのか、女性は涙声で話してくれた。

女性は、T医師から浴びせられた数々の暴言を、すべて記したノートを、私に見せてくれた。詳細にぎっしりと書かれていたのには、正直驚いた。T医師の心無い発言に傷ついた女性は、大泣きしながら病院の玄関を出たと話し、その時、守衛の男性が心配して声をかけてくれたそうである。更に、病棟では、高齢の男性患者に対してT医師は怒鳴りつけ、その患者は脅えていたところに女性は遭遇したとも話してくれた。T医師は、余程、高齢者がお気に召さないようだ。高齢者の介護に心身ともに疲弊している介護者の気持ちが、この若い医師には理解できないのであろうか・・・。いや、若い医師だけではなく、今まで、私が携ってきた医療従事者全員が、老人の心と体の変化をまったく理解していない。と自信を持って言いたい。
いつまでも老人を成人と思い込み、扱い方が分からないのである。
しかし、このような現状が変わらないことには、介護者は、心労から自殺を選択するという最悪なパターンからは回避できないと、私の経験上、強く感じた次第である。

 平成19年12月上旬。T医師から「胃漏」をするしか手段はないと説明を受けた。私は、その前に嚥下のリハビリを試してほしいとT医師に頼んだ。案の定、T医師は、嚥下のリハビリをしても無駄という返答をしてきた。患者に最善を尽くすのが医師としての勤めであろうと認識していた私はひどく立腹した。つくづく悪い医師に当たったものだ!もう医師など信用しない!その時「母は絶対私が治す!」と決心したのだった。母は弱っていたが、一日2時間、私独自の嚥下リハビリを考案し、母に色々な口の運動を試した。舌の運動、口を大きく開ける運動、声を出す運動、童謡も一緒に歌った。それだけではない、廊下は手を繋ぎながら歩かせた。病院の窓から外を眺めた時だった。母は「黒酢の酢豚が食べたいなぁー」「銀座で美味しい物を食べたい」と、覇気のない声で呟いた。「また一緒に銀座へ行って美味しい物を食べようね。」とにかく、前向きに物事を考えられるよう、私は言葉選んで母と会話をするよう心掛けた。
しかし、母は「もうあかん。」と、小さな声で呟く。私はそんな弱気になってしまった母を認めたくなかった。「全身全霊で治す!」その一途な気持ちを私は決して忘れず、ベッドに横たわっている母を、血行をよくするために、毎日、全身をマッサージした。20分の足湯も欠かせない。時より、母はしんどいと言って嫌がった。それでも、私は一日も休まずリハビリを続けた。家に帰ると私もヘトヘトふらふらで、食欲もないほど私は疲れ切っていた。

その一方で、体重27キロのやせ細った老いた母に対して、私はなんて過酷なことをしているのかと、自責の念に駆られた。しかし、最後の最後まで、私は諦めたくなかった。そんな中、母は自力で痰を出せるようになった。奇跡だ!奇跡が起きたのだ!嬉しくて、さっそく准婦長のところへ飛んで行き、そのことを知らせた。日々、私のリハビリを観ていたのか「娘さんには敵わない」と、微笑みながら一緒に喜んでくれた。喉の筋力が戻ってきたのだ。
「食事が食べられる!絶対に!」「そうだ!入れ歯を作ろう。」私は歯科の受診を看護師に頼んだ。しかし、一向に話が進まないというか、誰も動いてはくれなかった。再度、頼んでもずっと無視を続ける始末。
これが最後の手段と思い、私は医師2人に手紙を書いた。やっと、歯科の受診が受けられることになった。朝9時から歯科の受診ということで、私は8時半に病室に入った。眼に入ってきたのは、O医師が慌てた様子で母に吸引を施していた。近くに婦長も立っていた。母は真っ赤に顔を腫らし、息苦しそうにして咽ていた。婦長は、困った表情を浮かべ「すみなせん。ナースコールの元が外れていました。」「真に申し訳ありません。」と私に深々と謝罪してきた。
ナースコールの元は、しっかりと強くはまっているものであり、簡単に外れるものではない。夜中に、寂しさ、不安から母は頻繁にナースコールを押したのであろう。それを看護師の誰かが疎ましく思い、意図的に外した。非常に残念ではあるが、私はそう疑いを持ってしまった。朝、痰が喉に詰まった母は何度もナースコールを押したが、誰も病室に来なかった。たまたま、廊下を歩いている時に、誰かが苦しがっている母に気付いたのだろう。まさに間一髪だった。

結果、母は入れ歯を作ることが出来た。幸い歯科医には恵まれた。
私は胃漏を造接する前に、嚥下の検査をしてほしいと2人の医師に頼んだ。彼らは渋々と応じてくれた。祈るような思いでレントゲン撮影を行った。しかし、その頃から一日おきに戦振(ふるえ)の症状が出始めてきた母は、懸念していたように、その日は、戦振症状が出て不安は残念ながら的中した。レントゲン技師と一緒に影像を見た。母は緊張しながら、とろみの付いた飲み物をゆっくりと飲んだ。2回試してみたが、残念ながら飲み物は気管に入ってしまった。残念無念・・・。胃漏は余儀なくされてしまった。

 平成19年12月5日。胃漏造設の朝。母は胃カメラ室へと入って行った。
造設は簡単に出来るようで、30分程で終了した。その日の夕方から、白湯から始めた。口から薬は飲めないため、注射器を使い胃から消化剤、胃薬等を投与した。その後、T医師から、母の状態を観察してきた結果、パーキンソン病と診断したことを告げられたのである。それから、パーキンソン治療薬メネシット100gを朝夕投与がスタートした。即効性があるのか、翌日、「来年のお正月はホテルで迎えたい」と、母は予期せぬ明るい口調で話し始めた。ひどく驚いたのと同時に、天にも昇るほど嬉しかった。T医師からは「今日は最高ですね」と、珍しく機嫌よく私に話してきた。
これこそが本来の母の姿。私としては何ら不思議を感じなかった。
就寝前、安定剤としてジプレキサを処方されていた。深夜の巡回中、病室に入ると、大きな目を開け、一切、母は寝ていないと看護師から報告を受けた。
「大丈夫ですか?」と看護師は声をかけると「大丈夫。」と母は答えたと言う。

 病院は一般的には3ヵ月で退院させられる。その為、私は医療設備の整った老人施設を探し周ることにした。当時、中々、認知症や精神疾患、感情失禁の症状があるような老人を受け入れてくれる施設は殆んどなかった。あったとしても、すでに満室という状況。
区役所に相談し、信頼性の高い介護施設紹介センターを紹介もらった。色々と
検索して、ようやく母に適している施設を見つけることが出来た。年明けには入院して3ヵ月になる。2人の医師も、それを目処に処置しているというのが感じられた。夕方、2人の医師が病室を訪ねてきた。その時、入居する施設が見つかったことを報告した。入居審査のため、医療情報提供書と看護サマリーが必要なことを伝えたところ「家政婦の首を絞め、措置入院した人間が施設に入れるわけがないだろう。」薄笑いを浮かべたT医師は、私に対して屈辱的な言葉を浴びせてきた。そしてO医師と2人で笑いながら廊下を歩き去っていった。想定内とは言え、2人の乱暴な言動には、未だ私の脳裏から離れない。深い悲しみと強い憤りを感じた。母は措置入院ではなく、任意で入院したのだ。その直後、精神科医のB医師が病室に訪れた。私はB医師に、2人の医師から屈辱的なことを言われたことを話した。B医師は苦笑した。施設に入れるのならその方が良いと思うとB医師は返答してきた。
その30分後、2人の医師から話があると言って、私は別室に呼ばれた。そこにはB医師も同席した。B医師に忠告されたのであろう、2人の医師は別人のように真摯な態度で私に対応してきた。施設の概要を聞いてきたので、私は淡々と説明した。

 クリスマスも近くなってきた、母は胃漏を造設して1週間が経過した。
それこそ1滴の水も飲めない状況であった。嚥下性肺炎を避けるため、唾液すら飲むことは禁止されている。栄養分が体内に回ってきたせいか、心なしか母はしっかりとしてきた様子。病院のロビーでクリスマスの催しがあると看護師が教えてくれた。母は行きた言い出し、それもロビーまで歩いて行くというのだ。今まで車椅子を使用していたが、自分で歩くと言い、積極的になった母の姿を見て、看護師達も驚いていた。ロビーに着くなり、一番前に母は座ると意思表示をしてきた。元気だった頃の母と同じ雰囲気を感じることが出来、私にとって、ちょっぴり幸せな一時であった。

 平成19年も終わりに近づいてきた。その頃から、母は話す声が少し大きくなってきたことに、私は気付いた。さらに、また口渇を訴え始め、口の中に痰がいっぱいあると言い出した。「またか!」と、私は落胆した。口の中が気持ち悪いと訴える為、入れ歯を外し洗浄した。舌にはコケが生えないよう、専用ブラシで、常に口の中は清潔にしていた。母は自ら何も出来なくなっていたので、私が母の顔を洗顔し、化粧水、乳液を付ける毎日であった。洗髪は一日おきにして清潔に保った。

久々に入浴の許可が出た。看護師には頼まず、私が母を入浴させた。胃漏をして29キロと2キロは増えたものの、それにしても、母の体は骨と皮であった。しっかりとしていた体格だったのに・・・。言葉では表現できない程、悲しかった。悔しかった。なぜこんなことになってしまったのか・・・。
病院内には理美容があり、髪の毛のカットと顔剃りもした。
どんな病症にあっても、女性として母を精いっぱいきれいにしてあげることが、私の生きがいでもあり、そして、娘としての使命感を感じていた。
母には「食する」という、人間として唯一の楽しみを奪われたのだから。

 病室には小さな冷蔵庫がある。そこに、私は自分が食べようと思ってみかんを入れていた。食べ忘れたみかんを、翌日、冷蔵庫から出そうと開けて見ると、そこにはみかんは無かった。母は「私、夕べTVを観ながら食べたわよ」とさらりと言う。「みかんを食べた!?」私は直感的に、母は食べられるのだと思った。素人判断ではあるが、経菅食で栄養が付いて力が付けば、母は絶対に食べられるようになると確信した。T医師の説明では、最初の経菅食は朝昼夕で一日900カロリーと説明があった。状態が良くなったら、少しずつカロリーを上げると聞き、私は楽しみにしていた。そろそろ、カロリーを上げてもいいのでは?とT医師に打診してみた。すると予想もしない言葉が返ってきたのだ。
「寝たきりだから、1日900カロリーで十分」と言い出し、最初の説明とはまったく異なっていた。さらに、経菅食の液体が入った袋にはダイエットカロリーと記載されていた。体力を付け、太らなければならない母に、なぜ?いつまでもダイエットカロリーを続けるのか、私はまったく理解が出来ないでいた。再度、私は怯まず、カロリーをせめて1日1200にしてほしいとT医師に申し出た。すると、胃の壁に負担をかける等、なんやら難しいことを言い出した。
そもそも、T医師は、母を治療するという気持ちがないのである。
退院後、カルテ開示で分かったことだが、カルテには900カロリーから1350カロリーに上げたと記載されていた。明らかにこれは虚偽ではないか!!

水分量は1日200ccだった。ベテランのヘルパーは「あれでは水分量が少なすぎる。絶対におかしい。」と、私に強く主張してきた。おまけに、看護師は遺漏の液体をボウルに入れとろみを付け、そのままラップもしないで1時間放置したものを母の胃に注射器で注入していた。ヘルパーも呆れ果て言葉を失っていた。朝、病室を訪れた時だった。注射器から経菅食の液体が飛び散ったようで、病室の窓ガラスにいっぱい液体が付着し、その為に、部屋中が生ゴミのような悪臭が漂っていた。向精神薬の副作用により、感情失禁がある母は、看護師からは厄介者だったのであろう。それにしても、病人に対して、これ程までの酷い仕打ちは、一般常識として、到底信じられない行為である。
更に、ヘルパーの洋服にも経管食の液体を飛ばし、看護師から「あらごめんなさい」の一言だけだったと言う。クリーニングに出しても、油分が付着し取れないと溢していた。名の知れた大病院でありながら、極めて杜撰な衛生管理であることに、私達は強い憤りを感じた。

 平成20年の年が明けた。辛く寂しい元旦。病院に行く前に近くの神社へ参拝し、母のために病気平癒のお守りを買い、その足で病院へ向かった。
退院の日が1月13日と決まり、施設の審査もなんとか無事にパスをしたが、又、それまでもが大変だった。看護サマリーを確認したところ、事実とは全く異なった杜撰な内容が記されているあり様。お陰で、2回提出する羽目となった。
退院後、直接、施設へ入居することになる。不安ながらも母は楽しみにしていた。T医師からは、もう安定していると軽々しい診断をしていたが、毎日、母の状態を観ている私には、不安を拭い去れない状況であった。
漠然とではあるが、安定している日、又、そうではない日が、一日おきに症状が出て来たことに気付き、更に、母の声が異様に大きくなり始めたのを感じていた。呼吸器内科部長のP医師を先頭に回診の時だった。P医師は、母に何かを質問をしたが、きちんと答えることが出来なかった。その母に対して「だめだなこりゃ」と、部長医師までもが、患者に対して屈辱的な言葉を発したのだ。
それも親族である私が傍に付き添っていたにも拘わらずである。母がきちんと答えられなかった事に、若い数人の医師達が顔を見合わせて笑った。母が可哀想で哀れに思い、心の底から悲しい悔しい思いをした。母親の年代の人達は、若い頃、皆辛い戦争を潜り抜け、そして必死に頑張ってきたからこそ、今の日本があり、だからこそ彼らも大学の医学部で学ぶ事が出来たのだ。その必死に頑張ってきた人達を、なぜ嘲笑うことができるのだろうか? 一体、今の日本の教育はどうなってしまったのか? 両親からは、どんな教育を受けたのか?と、私は怒り心頭になった。
「医は心」と教えられてきた私には、この質の低い医師達の言動には、とても安心して身体を委ねることはできないと強く失望した。

退院まで後2日となった時だった。外出先に看護師から連絡が入った。
「お母様が一人でナースステーションに来たので、すぐに病院へ来てほしい。」という内容だった。老人の転倒を懸念するため、ベッドの脇にナースコールのマットが敷かれていた。頭の良い母は、それを避けて一人でナースステーションに行ったようだ。急いで私はタクシーを飛ばし、病院へ向かった。母は私を見るなり「あら、どうしたの?」と、何事もなかったかのように答えてきた。母に、なぜ一人でナースステーションに行ったか尋ねたところと「夜の食事(経菅食)が遅かったから、ナースステーションへ行って看護師に胃漏の食事を頼んだ。」と、はっきり返答してきた。前にも述べたように、母は栄養状態が良くなり、パーキンソン治療薬メネシットの効果なのかどうかは分からないが、脳内のドーパミンが活発になってきたのは確かなようだった。しかし、そんな母の様子に驚いたのか、O医師は、母の行動を抑制する注射をしたことを、後に看護師から説明を聞いた。しかし、その処置には、私は疑問を感じる。相変わらずその件に関しても、医師達からの説明は無かった。

カルテ開示で分かったことだが、この病院の精神科医であるB医師は、老人性うつ、不安障害、パニックと診断し、向精神薬を続行するとカルテに記載されていた。入院時、私は2人の医師には、母の症状は、向精神薬の副作用が原因であることをきちんと説明したにも拘らず、その事がまったく伝わっていなかったと理解できる。何度もB医師と面談したいことを主張したが、2人の医師や看護師に伝えても、一切、行動には移してくれなかった。
  1. 2012/07/23(月) 22:23:50|
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またしても転院-介護の日々-

平成20年1月13日退院の日。
一日おきに出る体調が優れない日であった。リクライニング付きのタクシーに母を乗せ、施設まで直行した。施設の部屋へ連れていっても、母の不安は治まらなかった。施設のスタッフもやや困った様子であった。小さな子供のように母は駄々をこねる。初めての老人施設での対処が分からない私は、入居する前に、周囲の知人達に、入居後の対応を参考までに聞いていた。最初は、どんな老人でも家に帰りたいと言うとのこと。自立をさせる為には、頻繁に面会しない方がベスト。月1~2回で十分というアドバイスを受けた。なによりも自分の人生を大切にした方が良いと、大半の人がそのように回答してくれた。老人施設へ入居させた後、母とはどのように携わってよいか分からない私にとっては、とても有難いアドバイスと受け止めた。しかし、親を施設へ入れることを賛成する人ばかりではなかった。「親を施設へ入れるとは何事!」と、懇意にしている友人が猛反対をしてきたのだ。「親は子供が看るべきでしょう!」「お母さんは施設より家がいいに決まっている。」と、これまた怒りまくってくる始末。
施設というだけで、今どきこんな偏見を持っている人がいるのか?と、正直、私は耳を疑った。誰もが皆、老いて病床にいる親と仲良く一緒に暮らし、最後は看取りたいと望んでいるのではないだろうか。老いるということは病むこと。親が病めば、子として看病、介護するのは、当然と考える。しかし、その家庭により、また、親の病状によっては、仕方なく施設へ預けなければならない場合もある。無理に在宅介護をした結果、家庭崩壊となってしまうケースも多々ある現状だ。其々、人は皆、違った環境で生活をしている訳で、選択肢も色々あってよいと思う。双方の幸せを考えれば、老人にとって施設での生活の方がベストなこともある。老人介護の経験がない人には、おそらく過酷な介護の実態を理解していないのだと思うが、だからと言って、親の看病で四苦八苦している介護者に対して、責めるような言語は慎むべきである。それは、ますます介護者を追い詰め、孤独に追いやられ、結果、最悪なケースになる場合があるからだ。淋しい事だが、見解の相違から、その友人とは疎遠になってしまった。

周囲から、頻繁に面会をしない方がいいというアドバイスを受けたが、やはり、心配なのと施設にご迷惑をかけていないか不安だった私は、1週間に一度は面会に行く事に決めた。しかし、それでも心配になって入居2日後、結局、施設に出向いてしまった。母の部屋の扉をそっと開けた。TVも付けないで母はボーとした覇気のない顔をして椅子に座っていた。私を見るなり「侘しい」と小声で一言口走った。またもや、別人の母がそこにいた。
新しい環境の中、どのように過し、他人と接してよいか分からないのであろう。
その上、食べることが大好きな母にとって、食を楽しむ時間がないのだから。
スタッフが私にお茶を持ってきてくれた。母は「お茶!」と言って笑みを浮かべながら私のお茶を飲もうとした。私は困った。「じゃぁ、ほんの少しだけ口に入れてみる?」と言い、母の口元に湯呑みを近づけた。ほんの少量だがお茶を口へ入れた途端、「あかん、飲まれへん」と、母は悲しい表情を浮かべた。せっかく、スタッフの方が美味しいお煎茶を入れてくれたのだが、流石に母の目の前で、私だけお茶を飲むわけにはいかなかった。

 施設へ入居して1週間。施設から呼び出しがあった。何が起こったのか懸念した私は、ひとりでは心細いので従姉妹に同席をお願いした。介護室のサロンで待っていたところに、月1回検診に訪れるというT病院の、物忘れ外来専門医であるM医師を紹介された。ソーシャルワーカー、ケアマネージャーも同席した。結論として、母を今の状態では施設では預かれないと報告を受けたのだった。一日置に夜中は廊下を周徊し、時より奇声を上げ、隣のお部屋の方が驚いて夜中に部屋を飛び出したこともあったと言う。するとそこに、いきなり母の叫ぶ大きな声が聞こえてきた。「あ~これではだめだ!」と、私は心臓が止まりそうになった。M医師は「ここでダメなら何処行ってもダメだよ。」と、厳しい説明を受けた。ひとりのケアマネージャーが「経験から言って、あれだけ声を出せるなら食べられる気がします。」と話してきた。「とにかく再度入院して、しっかり治しなさい。」とM医師からご指示を受けた。M医師の計らいでT病院へ入院することになった。ベッド待ちということで、それまで施設にお世話になる為、毎日、通わなければならない状況になってしまった。私が施設に到着する迄、ケアスタッフの方々は、交代で母に付きっきりでケアしてくれたことに、本当に頭が下がる思いである。

 今まで何度も繰り返される外圧には、私の精神をもヅタヅタにした。当時、従姉妹は、私に対して自死の不安を感じていたという。久々に、私は精神科医のE院長のクリニックへ出向いた。とにかくE院長に会いたかった。近くにいたかった。待合室で3時間もの長い時間が過ぎた。自律神経のバランスを崩していたのか、身体中が冷え、その間、トイレに2回立った。
待合室には書物以外に、壁に、色々な文言が書かれているものが貼られてあった。「病むということ。それは人間であるということ。」私はその言葉から目が離れず、暫く眺めて、心の中で囁いていた。なぜか、唯一の癒しだった。やっと受診の番だ。E院長に今までの経緯を説明した。「S病院の医師はきちんと診てくれなかったんだね」とE院長は残念そうに語り「お母さんはおそらく薬害だね。」「薬害からパーキンソンのような症状が出る場合があるが、発症したら、中々、回復は難しい。」と説明を受けた。私は、過労から自立神経のバランスを崩していることや、その上、不眠も伝え、習慣性のない軽い薬を処方してもらうことにした。診察後、久々に精神福祉士の方と夕飯を共にしたことで、少しは気分転換にはなった。
 
 施設へ着き、母の部屋へ入ると、母は洗面所でコップを片手に持ち、口の中を水で湿らせては吐くということを繰り返していた。また、あのH病院での口渇症状が再発したのだ。母の横にはスタッフが付き添っていた。他にも入居者がいるのにも係わらず、母に常時付き添い、本当に申し訳なく思う。薬の副作用で、母は、自らコントロールできない状態であった。スタッフからの報告によると、尿の出がひどく悪く、出た尿は混濁しているとのこと。逓信病院から引き継いだ処置は、一日の水分摂取量がわずか200ccという少量だからと感じていた。疲労、絶望から苛立つ私は、言う事を聞かない母の頬を叩いたことも数度あった。帰宅後、ひとりソファーで身体を休めた私は、病み苦しんでいる母に手を挙げてしまったことを、後悔する日々が続いた。日頃から弱音は吐かない方だが、仏壇の前では父と兄にその事を詫び、よく泣き崩れた。
時々、父の無二の親友であるC先生に現状を伝え「辛いなぁ~。あんたの体が心配や。」と、C先生は電話で涙声だった。施設には、これ以上迷惑をかけられない。T病院への入院は非常に待ち遠しかった。

平成20年2月中旬。やっと入院の日が決まった。
施設には約1ヶ月はいたことになるが、実に長い時間だった。
朝9時には病院へ到着するには、施設を8時前に出なければならない。わざわざ遠くから、従姉妹は助っ人に来てくれた。いつものお気に入りのタクシーを頼んだ。母は「夕べは寝てない」と、話していたが、スタッフの報告によるとしっかり熟睡したようで、母は機嫌が良かった。タクシーの後部座席にはTVが装置され、椅子もリクライニングシートで足も伸ばせる。母と従姉妹は後部座席に乗せ、私は助手席に乗った。
車を走らせて5分位経った頃、母の様子がまたおかしくなった。1日おきのスイッチオンが入ったのだ。後でわかったことだが、パーキンソン症候群の特徴とされるスイッチオンオフ症状であった。身体中が強ばり、小刻みに震え、歯をガチガチさせていた。本人の意思とは関係なく、全身が常に動く症状である。本人もなんなのこれ・・・と言って不安がる。
もはや、窓から外の景色を観る余裕などない。早く病院に到着してほしいと祈るばかり。

 9時前、T病院へ到着した。入院手続きを終え、隣接している病棟へ向かった。そこは、I区の老人リハビリ療養センターの一部を精神科が間借りしているという場所であった。建物は古いが、明るく広くて衛生的な病棟という印象を持った。この病院は、以前、母がH病院にいた頃、私が母の代理としてセカンドオピニオンとして受診したところである。M医師にこの事を告げ、以前、受診したY医師が主治医になることが決まった。よもやY医師と再会できるとは、私は夢にも思わなかった。前にも述べたように、Y医師なら絶対に母を治してくれると直感が走ったので、今度こそは期待できると確信した。Y医師と担当看護師を交えて、今後の治療方針や入院生活の説明があった。精神科は閉鎖病棟の為、保護者選任申立書を提出しなければならず、霞ヶ関の家裁で面談をしなければならないことを伝えられた。
担当看護師から「お母様はもう2~3才の幼児です。娘さんはお母様なのです。」と、優しく笑みを浮かべながら、私に親切丁寧に説明をしてくれた。目からウロコというのはこの事だ。高齢になるとみんな子供に返っていく。私はそう頭では理解し、行動していたつもりだった。しかし、私はそれをどこかで否定し、母を成人として見て、接していた事に気付かされた。看護師のこの言葉で、私はやっと介護の方向性が見えてきた。さらに「介護者の方は、どうか無理をしないでください。私達がいますから大丈夫ですよ。」と、看護師が優しく私を気遣ってくれた。私はここに来てやっと肩の力が抜け、大きく深呼吸が出来るようになった。介護者に対して、こんな優しい言葉をかけてくれた看護師は、今までお目にかかったことがなかったからだ。この看護師の優しい言葉には、涙が出るほど嬉しかったことを今でも私は忘れない。

 翌日、早速、霞ヶ関の家裁へ出向き、保護者選任の面談を受けた。審査官は年配の女性で、お喋りが好きらしく好印象を持った。審査官には独身の75歳の姉がいて、老人性うつになり自分が引き取り、現在、同居していると、自分の身の上話しを始め出した。高層マンションに住み、お姉さんは時より窓から外を眺め「死にたい」と言うらしい。いつ飛び降りるかと思って心配だ。と審査官は、ご丁寧に話してくれた。母親も自分が看取った、と最後に締めくくった。散々、審査官の身の上話を聞いた上で、面談は終了した。会話のお付き合いと思い相槌は打ったものの、終始、私は無言だった。10分後、保護者選任と認められた書類を手渡され帰宅した。みんな同じ悩みを持っているのだと、私にとっては、実に癒された面談だった。

 T病院の精神科病棟には、脳梗塞からの精神疾患、老人性うつ病、認知症の患者が入院していた。病室は6人部屋だった。今まで個室で慣れていた母は、大部屋へ入る前に驚いたのか、身震いをしていた。正直、私も大変なところに来てしまったと思った。その部屋には重症患者が多く、母のベッドは中央で両サイドに挟まれるという、あまり良い場所とはいえなかった。母の左側の患者はベッドに拘束され「あ~あ~」と声を出し続け、一方右側の患者は、眼が異常に吊り上り、舌が飛び出し、その舌を動かしピチャピチャと妙な音を出すのだ。時より、アヒルのようなゲコゲコした声を張り上げる。私は全身に鳥肌が立ち嗚咽した。TVのあるサロンでは、小さな机が付いている椅子に拘束されている患者が数人いた。その中に、若い男性が拘束され座っている姿が目に入った。近くに、その若い男性の奥様がいた。聞くところによると、ご主人は8年前、若年性認知症を発症したと言う。既に行き場がなく、病院を転々としているとのこと。拘束されている姿は、見ている私も大変辛いが、しかし、拘束をしていないと、自分の室内履きのサンダルを口に入れ、それを噛むという行為に及んでしまうのである。病院側の処置は、適切と考えるしかない。家族としては耐えがたい事ではあるが、立場が変われば見える景色は違うと認識できる。
サロンの反対側に洗面場がある。そこに母はずっと立ち続け身体を小刻みに動かしながら涎を流し続けている様子を見たその奥様から「お母さんなの?」と、私に尋ねてきた。なんでこんなことになったのかしら・・・と、奥様は涙を流しながら私に抱きついてきた。そして、床にしゃがみ込んでしまった私を支えるかのようにして、お互い初対面にも係わらず、私達は抱き合って号泣してしまった。
 
母の病室には重症な患者が多くいた。大半が、薬の副作用から入院してきた患者だと看護師が教えてくれた。海外から見れば、日本の医療がまだ遅れている事や、一般的に患者軽視の医師が多いことを看護師は、懇々と、私に話してくれた。転院した先々で苦い体験してきた私には、看護師の言葉は、とても強く心に響いた。右隣の舌を突き出している老人も副作用だと聞いたが、そんな重い症状でありながら、頭は聡明と聞いて驚いた。週に2~3回、40歳位の大人しそうな息子さんが、母親の洗濯物を持って見舞いにきていた。来る度に、息子さんは呆然と母親のベッドの脇で、何も出来ず立ちすくんでいる光景が目に入ってきた。あまりにも変わり果てお母さんの姿に、信じられないという様子で言葉を失っていたように見えた。それを傍らで見ている私も辛かった。

 母の体重は25キロまで減少した。一見、少し小太りになったかと誤解するほど、異様に下半身が浮腫み始めた。血液検査、頭のMRI,胸のレントゲン等、様々な検査が始まった。一時、Y医師は、レビー小体型認知症を疑った。後頭部の血流が一部悪かったことや、物忘れ、幻覚、パーキンソン症状も併用している可能性もあるという理由からだ。
しかし、私の直感というのだろうか、レビー小体ではないと感じた。というのは、母は薬の影響で健忘症状が出ている訳で、以前、アルツハイマー型認知症の父を看てきた経験がある私には、一般的な認知症、あるいは、もの忘れとは違うと、漠然だが、そう感じていた。都心の某クリニックF院長からは、最後に「統合失調症」と診断を受けたことをY医師に伝えたところ、高齢になってからは、統合失調症を発症する症例は今までなかった。と説明を受けた。「誰でも高齢になると、身体だけが老いるのではなく、脳も老いていくのです。」と、Y医師から、素人にはとても理解しやすい説明を受け納得できた。

口頭の説明だけでは、多忙の医師には中々伝わらないと感じた私は、今までの経緯や薬歴を文書にまとめ、Y医師に手渡した。後日、Y医師から「薬剤性パーキンソン症候群」と、診断を下された。原因は多量に向精神薬を服用した為と説明を受け、やっと私は納得することができた。Y医師は、投薬をメネシットからネオドバストンに変更した。成分はメネシットと変わらない。又、長く続けていた薬を、突然中止するのは危険な為、今後は、服用していた薬の量を少しずつ減量していくとのこと。S病院で投与されていた薬は、すべて排除された。更に、神経内科のK医師からは、運動機能には全く問題ないと診断され、経菅食のカロリーを少しずつ上げていくことになった。1200カロリー、1500カロリー、最後は1900カロリーまで一気に上げていったのだ。これは、バリバリ働いている成人の摂取カロリーと同じである。それを一日、5回に分けて経菅食を続けた。というのは、母の血中たんぱく質が致死量に達していたからだ。非常に危険な状態であった。S病院では、パーキンソン病と診断され、アルブミン(たんぱく質)の上昇を抑えるためにダイエットカロリーの栄養だけで済ませていたことが、やっと私は理解ができた。というのは、S病院の看護師からパーキンソン病はアルブミンの摂取を控えるという説明を耳にしたからだった。また、水分量も200ccでは、やはり少なすぎたのだ。最低でも500cc摂取しなければならないと聞かされた。摂取水分量が少なく、その上、脳内のドーパミンを上げる朝夕2回のメネシットの投与である。水分を軽減された為に尿意すら催さない。薬物を排泄されない為、体内にメネシットが残り、母は常に興奮状態に陥り、奇声を上げ、一日中歩きっぱなしという異常な行動をしていたことが、やっと判明した。それだけではない。経菅食にはナトリウム(塩分)が入っていなかったのである。看護師は「何をやっていたのかしら!人間には塩も必要なのよ!」と怒りながら、経菅食の中に塩を混入していた。私には驚くことばかりが続き、今まで携わってきた病院が恐ろしくなった。
嚥下状態も決して悪くないと看護師は話てくれた。この病院では、嚥下のレントゲン撮影は1回の検査だけでは判断しないと言う。老人には、時間が必要で、根気よく患者の状態を観察しながら、4回もレントゲン検査を施すと、丁寧に説明をしてくれた。案の定、S病院の2人の医師の診断、治療は不適切だった! いや、そうではない。医療過誤! 間接的な殺人行為だ!

 一日5回の経管食は苦しかったようで、母は、口や鼻から吐き出すこともあった。体重は簡単には増えないものの、下半身だけは異様な浮腫みが続いた。
浮腫みの為、パジャマのズボンはパンパンになり、今にもはち切れそうで、膝を曲げることも出来ず、椅子に座ることすらできない状態が続いた。足首から下はまるで象の足。肌の色も赤黒く、もはや人間の足には見えなかった。
この浮腫みは、たんぱく質の低下からくる症状とのこと。今まで投薬されてきた薬を体外に排泄するまで、1ヶ月以上の時間を必要とした。禁断症状が出るのか、深夜には奇声を出す為、就寝時間は、時々、個室に入れられた。その間、母と私、二人三脚で向精神薬の離脱と闘った。
救われたのは、ここでは患者や介護者も、皆、同じ立場で地獄を味わっている。辛い気持ちが分かり合える介護者同士、皆一丸となって協力し、助け合ったことが、唯一、乗り越えられた理由だと思う。

 平成20年3月中旬。一日おきのスイッチオンオフ症状は、中々改善されなかった。オフの日は穏やかで、母は気分が良さそうであった。そういう日は、少しずつではあったが、おやつを食べることができるようになった。私が買ってきたケーキ2個はペロリとたいらげた。しかし、オンの日は、水がないとダメと言い出し、一日中、洗面場から離れない。興奮状態で顔の神経がピクピク動き、眼の瞳孔は大きくなったり小さくなったりとし、呼吸も苦しそうであった。それを傍らで見ている私は、とても恐怖を感じた。未だ興奮したように奇声を上げる。見舞いに来ていた患者の家族のひとりが「いくら親でも、ああなると嫌になるわよね。」と、私に正直な気持ちを伝えてきた。正にその通り。現実逃避したかった。

  1. 2012/07/23(月) 22:29:24|
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