被害者にならない為の知識-精神薬を学ぶ-

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薬剤性パーキンソニズム

 老人介護に疲れ、子が親を殺めてしまった。老いた親を道ずれに一緒に死のうと思ったが、介護者だけが逝ってしまい、病弱で老いた親だけが一人残されてしまった。こんな悲しいニュースを、昨今どれだけ耳にしてきたであろうか。
つい最近である、同年代であった私の知人が浴室で首を吊り自殺したことを知らされた。母一人、子一人だった。認知症になった母親を娘一人が介護していたとのこと。聞くところによると、その母親は、被害妄想の症状が出て、娘から虐待を受けていると近所中に言い触らしていたという。
過剰なストレスにより、結果、誰にも相談できず自ら死を選ぶしか手段はなかったのか・・・非常に悔やまれる次第である。
変わり果てた親の姿、意味不明な言動、感情失禁、まさに老獪とはこのことだ。
病気だから仕方がないと理解しつつも、その現実を受け入れるには、家族として中々難しいもの。
また、極まれだが子供が若年性認知症になり高齢の親が過酷な介護を強いられるという逆のケースも中にはある。これには胸が詰まり言葉を失う。

私の父はアルツハイマー型認知症であった。物忘れからはじまり、被害妄想、深夜の徘徊、老人性うつ、汚物を洗面所に並べる等、色々なことはあったが、なんとか母と助け合い対処してきた。一日5時間、介護ヘルパーを依頼した。
幸いと言ってよいかどうか分からないが、認知症を悪化する前に、父は急性心筋梗塞で、平成16年6月22日79歳で他界した。

2年後の平成18年、母は78歳。やや勝気な性格である一方、世話好きで、子供のように天真爛漫で華なことが好きな人である。
高齢な割には、大病もせず医者には無縁で今日まで来た。これからは、2人(母と娘)で旅行を楽しもうと、初めてのクルーズ旅行を予約し心を弾ませていたそんな矢先のことである。

 その年、8月夏の終わり頃、ある日、突然、母の体調に変化が現れた。その後、僅か一年半という短期間で、健常だった母は要介護5という最悪の認定を受けるまで、急激に状態が悪化してしまったのである。一体、母の身体になにが起きてしまったのか?入院先の主治医からは、回復不可能という診断書まで手渡される始末だ。

 翌年の平成19年末。
「悪夢」その言葉が妥当であろう。
体重25キロ。そのやせ細った母の腹部からは胃に栄養分を流し込むチューブ「胃漏」が造設されていた。そんな虚弱な身体でありながらも、母は興奮状態から部屋や廊下を歩き回る。それも一日置きに、24時間就寝しないで立ちっぱなしという異常な行動が続いたのだった。その上、奇声を上げる。
時には「殺してくれ」と、興奮状態になり、母は私に言い放つ。
一体、いつまでこんなことが続くのであろうか・・・。
先の見えない闇というのはこのことだ。

ことの原因は、向精神薬の多量摂取による「薬剤性パーキンソニズム」であった。主治医はこれを見過ごしていた。と言うか、きちんと患者を診ていなかったと私は考える。家族の中で不幸が相次ぎ、体調不良を訴えた母に医師から処方されたのは多くの向精神薬であった。明るく元気だった母は、日に日に衰え、廃人になっていく様子を、私はただ観ているしかなかった。
物忘れ、焦燥感、周徊、パニック、幻覚、せん妄、被害妄想、凶暴、自殺未遂。
壮絶な介護地獄を私は余儀なくされた。

 冒頭で述べたように、実は、この私も過酷な介護に疲れ、死を考えたひとりである。それも母と道連れに。当時、その道しか選択できない程、私は心身ともに疲弊していた。しかし、私の中で、こんな最悪な状態で母を見殺しにするわけにはいかなかった。もう一度、たった一度でいい、母に美味しい物を食べさせてあげたい。最後に「幸せだった」と天国に旅立たせなければ・・・という絶対的使命感が私には残っていた。そうでないと、先に逝ってしまった父や兄に申し訳ないと思ったからだ。

 こんな身を削りながらの介護の中、「奇跡」が起こった。名医に遭遇したのだ。遠回りはしたものの、母にとって、ようやく適切な治療を受けることが出来た。
一般的には聞きなれない言葉だが「無けいれん電通療法」という治療である。脳への電気ショックだった。多量に服用した向精神薬の副作用の為、完全に誤作動してしまった母の脳は、電気ショックにより正常な脳に完璧にリセットされたのだ。この治療で、母は要介護5という最悪な状況から脱出できた。回復不可能と最悪な診断を医師から伝えられ、周囲も半ば諦めていたのにも拘らず、母は見事に地獄から「生還」したのである。今では要支援1と認定を受けるまで回復し、毎日、施設で楽しく過し、時々、私と銀座の街を散歩するほど健常者に戻り、幸せな日々を母は送っている。
3度もの危篤で死の淵を彷徨った母。こうなった原因は一体なぜだろうか? どのようにして廃人から生還に至ったか、詳しく経緯を振り返ってみよう。


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  1. 2012/07/18(水) 16:53:08|
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初診-悪化-自殺未遂

平成16年6月、私の父は79歳でこの世を去った。まだ涙の乾かない翌年秋だった。2人いる兄の次男が、末期の肺がんで、余命半年と告げられた。
癌に効くというものがあれば、兄の為に色々なものを試した。しかし、その甲斐なく、翌年、平成18年5月、兄は55歳という若さで天国へと旅立った。

当時、母は78歳。無事、兄を天国に送ることができた。さすが、気骨のある年代と私は安堵した。初夏には、母と一緒に京都の祇園祭に行き、とても満喫した時間を久々に過すことができた。しかし、そんな夏の終わり頃、「食べられない。眠れない。」と、母は不眠や食欲不振を訴え、少しずつ顔がやつれはじめてきたのだ。息子の死、そして夏の疲れが出たのだろうと、私は簡単に考えていた。よもや、これから介護地獄がスタートするとは、当時、私は予想すらしなかったのである。

 平成18年9月。大病院で検査をしたものの、これといって悪い結果は出なかった。そんな中、知り合いから、都心の某クリニックを紹介された。うつ病から疲労した脳を休めるという診療をしているF院長がいるというのだ。正直、私は気が向かず反対したが、結局、長男夫婦が母をそのクリニックへ母を連れていった。また、母も早く元気になりたいと藁をもすがる思いだったのであろう。夕方、兄は、母を抱えながらクリニックから帰ってきた。兄曰く「疲れた脳を休めるために、寝ることをF院長から勧められた。」と言うのだ。診断は「燃え尽き症候群。」処方されていた薬を確かめると、一般的に処方されている安定剤と称するデパスだった。私も以前、気分がブルーで眠りにくい時に内科医から処方され、就寝前に1錠服用したことがあった。しかし、日中に服用すると眠気とだるさで全く仕事ができなくなるという始末。生前、高齢の父に寝る前に1錠服用させたが、朝になっても薬の副作用が残り、全身ふらついていたのを覚えている。体格のよい父ですら、高齢のせいかデパスの副作用が顕著にでたのである。薬の効き目が人一倍よい母に対して、F院長が処方した用量はデパス錠一日4回、朝昼夕、そして就寝前。他にレンドルミンを就寝前に1錠、朝夕パキシル2錠づつ、朝夕デジレル2錠処方されていた。

以前、婦人科医である私の主治医は老人にデパスを服用させてはいけないと、日頃から私は聞かされていた。母にも忠告していたのにも係わらず、すでにクリニックで出されたデパスを母は服用し、ぐったりとして家に戻ってきたのである。それからの母の状態は、昼夜逆転し、その上、意味不明な言動が出始めて来た。さっそく、F院長に私は連絡を取り、デパスは母には強すぎるため、就寝前だけの服用に変更したい旨を伝えたところ、すんなりF院長はOKを出した。

しかし、その後も母の状態は悪化するばかりである。母を連れ、兄夫婦と一緒に私も某クリニックを訪れた。F院長は、一見、穏やかで優しそうな人物という印象を持った。しかし、高齢で元気のない母に向かって「あなたのような人は牢獄が向いています。」「私のいるK大学の病院に来ますか?」「家族と一緒にいると、甘えが出てよくない。」と、医師としては到底信じられない言葉を母や我々家族の前で言い放ったのである。それも静かに受診している母に対してだ。母のことに無知な兄夫婦は、F院長の説明に従おうと私に言う。というか、老いた親が煩わしかったという言葉がふさわしいであろう。しかし、私は母を遠く離れる場所に移すことに猛反対をした。老人を家族から離す行為、慣れた環境から遠ざけることは、老人に対して決してプラスにはならない、精神的苦痛を与えるだけと判断したからだ。

平成18年10月。結果、F院長の紹介でS県のR精神科病院にしばらく入院することになった。精神科病院とはいっても、そこは都心の大ホテルのような豪華さで、実に心地よい空間がそこにはあった。マンダリンホテル級といっても過言ではないだろう。医師はスーツ姿、看護師はホテルのユニホームのようなお洒落なものを着用していた。スタッフの対応や食事は良かった。日本初のストレス専門病院として、誰でも軽く利用できる病院とホテルが一体化した精神科病院であった。
そこでは、向精神薬(抗鬱剤、安定剤等)を服用しながら、母はホテルライフのような穏やかな日々を過していた。しかし、周囲には娯楽や観るものなど全くなく、畑の中にポツンと楽山は立っていた。都心の華やかさが好きな母には、寂しさが増幅し、一層不安が強くなった。復帰して早く自宅に戻りたかったのか、母は広い廊下で腕を大きく振りながら歩き、一所懸命リハビリに励んでいた。1ヶ月が経過した頃、「私はもう大丈夫だから退院する。」と母が言い出した。R病院のN院長もOKを出した。

母と私は、同じマンションの上下別々に住んでいる。完治はしていないものの、以前よりは安定していた様子だった。11月下旬。区役所から、介護認定の調査員が来る日であった。認定の結果、要支援1であった。退院後、かかりつけ医として都心の某クリニックに再通院した。私は気が向かないため、兄夫婦が母を連れていく役目となった。しかし、また母の様子に変化が現れてきたのだ。まぶたは半分下がり、目はどんよりとしている。なぜか不安そうである。どうしていいのか、本人もわからないようだ。TV,新聞、雑誌等、何も興味を持たない、関心もない。ニュースを見て人が血を流しているのを見ると「怖い、怖い。」と目を背ける。焦燥感というのだろうか、部屋中を歩き回る母。「止まらない。私、ずっと歩き続けて止まらないのよ。」と能面のような無表情で母は口走る。そんな、母の姿を見て、私は、すでにどうする術もない。一体、どうしたらいいのか、今度は、私が錯乱状態に陥った。「もう、いやー。」と私は大声で泣き叫んだ。

平成18年師走、どんよりと曇った土曜日。持病の鼻炎を患っていた私は、ちょうど治りかかっていた頃だった。母が、夕方、某クリニックへ行くことになっていた。母に昼食を持って行き、そしてリビングに座った。相変わらず、母は食欲がない様子だったが、少しずつうどんを口に運んでいた。しかし、表情に覇気はなかった。私は上の自分の家に戻った30分後、私は母に用事を思い出し、母に電話をした。呼び鈴が鳴っているのに出ない。外出するはずもないのに・・・。階下の母の家に行った。リビングにあった昼食のうどんは殆んど食べていない様子。母は寝室のベッドで横になって、なんやら口走っている。なんだろうと思い寝室に入り私の眼に飛び込んできたのは、真っ赤な鮮血であった。腹部が全体血に染まっていた。割腹自殺だ!ナイトテーブルには、ハルシオン(睡眠薬)を多量に服用したと見られる跡、そして先端に血がべったりとついた包丁がそこにあった。

  1. 2012/07/23(月) 22:08:49|
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介護の日々-見つからぬ出口

混乱の中、私は包丁をキッチンへと持って行った。そして119番で救急車を呼んだ。自分でも何がなんだかわからない状況で、頭が真っ白になり、身体が小刻みに震えていたのを覚えている。
救急車が到着し、一緒に刑事も数人来た。一人の刑事が、私にことの経緯を聞いてきた。まず、包丁のことを聞かれ、私はキッチンへ持って行き、包丁にべっとりと付いていた血を洗い流したことを刑事に告げた。その時、私は包丁を現場から動かしてはいけないことに気が付いた。動転して私は何も考えずキッチンへ持って行ったことを刑事に詫びた。その時、TVドラマで見ていた事情聴取を思い出し、もしかして私が?私が疑われているの? 私は、今までの経緯を淡々と刑事に語った。その時だった。兄が血相を変え到着した。救急隊は、母をタンカに乗せ運び出そうとしていたその矢先、今度は違う刑事が、事の経緯を私に尋ねてきた。兄は焦った様子で、「そんなことは後にしろ。早くエレベーターに乗れ。」と声を露にした。刑事は、「マンションの管理人がパトカーも一緒に来たことに不思議がっていますが、上手く話をしておきました」と私に囁いた。

 自宅近くのN病院に母は搬送された。多量に出血していたせいか、失血死の恐れがあるため、一刻の猶予も許されない状況であることを医師から告げられた。緊急手術が始まりICUの待合室で呆然と座っていた時だった。これまた違う刑事が病院に訪れ、再度、同じ事を聞かれうんざりした。
「ご協力ありがとうございました。」と言って刑事は帰っていった。
事情聴取3人目、これが最後だった。

 治りかけていた鼻炎が悪化したのか、私は体中がゾクゾクとして体を休めたかった。午後3時半頃、長男家族が病院に到着した。私は、いったん自宅に戻りベッドで横になり暫くした頃、兄から電話が入った。「おふくろ危ないようだ。覚悟しておけよ。」私はどん底に突き落とされたような気分になり、気が付いたら、柱にしがみつきやっと立っていた状態であった。体中が凍りつき目眩を起こし、ソファーに腰掛けた時だった。近所に住んでいる友人が私を心配して駆けつけて来てくれ、温かいお茶を入れてくれた。胃に暖かいものが入ったことで、私は精神的に落ち着きを取り戻していった。友人は、一緒に病院へ行こうと言ってくれたが、私は恐怖で拒んだ。「そんな弱気でどうするの。私も一緒に行くから。」と友人に説得され、一緒に病院へと戻った。甥姪は、長椅子にぐったりとしていた。30分後、母はオペ室から出てきた。人工呼吸機を付け、母の顔は雪のように真っ白であった。後に医師2人がオペ室から出てきて「助かりました。」という言葉を聞き、兄は「良かった!」と安堵した表情を浮かべた。2か所あった傷は深いかった為、出血が多く輸血を必要としたという。幸い、内臓には傷が付いていなかったことで、母の命は救われたと医師から報告を受けた。

 翌日、ICUにいる母を見舞った。酸素吸入をし、手には自殺防止の厚いミトンの手袋をしていた。母は私を見るなり恐ろしい形相で「なんで私を助けた!」と睨みつけた。ショックのあまり私は30秒程でICUを出た。助けたことを逆恨みされた私は、母に対して怒りと悲しみでいっぱいになった。ズンとした思い気持ちを背負いながら、翌日も病院へ向かった。母は身体を拘束されていた。腹部を縫合したばかりで身動きをしてはいけないのにも拘らず、足をバタつかせて困っている。と看護師から説明を受けた。さらに、深夜には奇声を上げ、周囲の重篤患者には迷惑をかけているのを知りつつも、私にはどうする事も出来なかった。相変わらず怖い形相をしている母。すると、いきなり悲しそうな表情を浮かべ「お願い!ここから出してちょうだい。」と私に向かって手を合わせる母の悲しい姿。「ごめん。それはできないの。」「傷口が固まるまで1週間我慢して」と説明して、私は後ろ髪を引っ張られる思いで病院を後にした。
翌日、病院へ向かった。母はベッドに座った状態で歯を磨いていた。能面のような無表情な顔つきで、それも、歯ブラシを裏側にしながら歯を磨いている母の姿はあまりにも悲しかった。 

 待ち望んでいた1週間が経過し、あと数日で平成18年も終わろうとしていた。結局、S県のR病院に再入院することにした。母は、N院長に「変なことをしてごめんなさい」と頭を下げ、その顔は青白く、体はやせ細り小さくなっていた。母をお風呂に入れた時だった。腰の周り、腕の周りには赤黒い多数の内出血の跡があり、拘束された時の痛々しい傷跡が残り、私は胸が締め付けられる思いがした。精神的に少しずつ安定してきたものの、最初の入院とは違い、母は本当の「うつ病」になってしまった。と私はそう感じた。天真爛漫で気丈な母がなぜこんなことに・・・。元気な頃の母を思うと、そのギャップは、娘として現実を受け止めることが到底出来ない、押しつぶされそうな感覚であった。私は焦った。毎日、1時間半掛けて母のいる病院に通い、母を外へ連れ出し、病院の周りを歩くリハビリからスタートした。明るい気持ちにさせようと、好きだった歌を一緒に歌いながら、お互い必死に努力し、時間をかけて鬱からの脱出を試みた。

夕食は、病院食をいつも一緒に食べることにした。その時、またもや母の身体に異変が出始めてきた。手が震えるため、箸やスプーンが持てないのである。それでも、必死に母は口に食べ物を運ぼうと努力したが「だめだ!」と途中で食べ物を溢してしまい、母は苛立ち「もう嫌!」と言ってスプーンを投げつける。母を宥めながら、私は母の口へ食べ物を運んだ。人の手助けがないと何もできなくなり壊れていく母。母はそんな自分を受け入れられないという精神状態に追い込まれていった。N院長からは、容態が回復に向かわない母を診て、「色々と薬を変えても、一向に良くならない。」と語るだけ。又、婦長からも「お母様は重症です。」と言われる始末。こんな状態が半年近く続いた。

 母を入浴させた後、また新たな戦いが始まった。下着の身に着け方が分からないというのだ。一度に3枚、ちぐはぐに下着を着ける母。私がアドバイスをしても一切、耳をかさなくなり、ひとりで困惑しながら、やっと納得するまで30分もの時間が必要になった。下着を重ね着し、その上、変な拘りを持つようになり、上下合わせて、下着だけで200枚以上はあった。それを全部広げだし、下着を一枚一枚チェックするのである。それをまた全部整理し、片付けるのが私の日々の仕事であった。

  1. 2012/07/23(月) 22:11:25|
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有名H病院に転院-強引に退院

 平成19年5月、GWに差し掛かかり、自殺未遂から半年近くになろうとしていた頃、N院長から退院の話があった。とは言っても、母は完治したわけではない。以前、健常な時には48キロあった体重が、その時には39キロまで減少し弱々しくなっていた。相変わらず表情には笑みもなく、身体全身も固く強ばっていた。周囲の入院患者達も、一時的に安定し、退院をしたものの、すぐに病院に戻ってくるのが、そこではそれが普通に行われていた。しかし、その繰り返しというのは、患者本人だけではなく、携っている親族等、誰もが不安をいつも抱えている。

 結果、孫と一緒に住むということで、母は6月に退院し、長男夫婦と同居することになった。理由は、「娘が怖い」と、母は私から虐待を受けていることを、兄夫婦に伝えたというのだ。被害妄想が出始めていたことを分かっていながらも、私のショックは相当なもの。涙が止まらなかった。
後に分かったことだが、夜になると、毎晩、母は兄に「娘が怖いから助けて。」というSOSの電話を入れていたと言う。日中には「毎日来てね!」と、私の帰りを惜しむように、母はエレベーターの前まで見送りに来ていた。昼と夜では、全く違う母に豹変していたことが後で分かった。
母の介護を甘く考えている兄夫婦には、重病な母を当然看れるはずがなく、すぐに悲鳴を上げ、介護を投げ出すと私には先が読めていた。
案の定、1ヵ月半で事件は起きた。

 平成19年。忘れられない猛暑の8月。「お母さんが家政婦の首を絞めた!」と、弁護士から連絡が入った。幸い、家政婦は大事に至らなかった。聞くところによると、兄夫婦は、母を看れず、近くにマンションを借り、家政婦2人を雇い、母と3人で共同生活をさせていたとのこと。慣れない土地で、まったくの他人との生活など、老いて、尚且つ、重症な状態にあった母には、当然、不可能に決まっている。事件後、困り果てた兄夫婦は、また、某クリニックのF院長を訪ねたのだ。診断は「統合失調症。」 F院長から診断書を手渡された兄夫婦は、M区のJ病院へ行ったそうだが、暴行を起したということで、入院は門前払いをされたとのこと。結果、J病院から、都下のH病院を紹介され、入院することになった。と弁護士から説明を受け、早速、病院へ駆けつけた。驚いた事に、そこは俗にいうキチガイ病院だった。

 平成19年8月12日。H病院の薄暗い中廊下を歩き、エレベーターで最上階へ上がった。閉鎖病棟のため、病棟へ入るのに、ベルを鳴らし、身元を確認される。病棟に入った瞬間、なんとも言えない嫌な空気を感じた。母は、そこでは高額な個室に入っていたが、それにしても、S県のR病院とは違いひどい部屋であった。ユニットバスには洋式トイレが設置してあったが、段差があり危険なため、ユニットバスには鍵が掛けられ使用することが出来なかった。仕方なく廊下にある男女共同のトイレを使用するしかなかった。
母は、栄養失調から状態が悪化し、ベッドに横たわり点滴を受けていた。目はくぼみ頬がげっそりとこけ、見るも無残な姿だった。主治医としてA医師を紹介され、ソーシャルワーカーも含め、今後の治療方針を説明された。「これから患者に合う薬が出るまで、色々な薬を試します。」という極めて簡単な説明で終わった。今度は、H病院に足しげく通院することになった。

 隣の部屋には2年も入院をしている老婆がいた。新しい入院患者が気になるのか、廊下を歩くたびに、母の部屋の扉を開け覗き込むのだ。
実に気味が悪かった。また、時より、悲鳴のような声が何処からとなく聞こえてくる。不気味!!看病している私までも気分が悪くなった。向精神薬を投与されているせいか、患者の表情は、皆、能面の様な独特な顔つきをしていた。更に、向精神薬の副作用のせいか、あちらこちらで転倒する患者を目にした。
ベッドから頻繁に落ちる患者さんは、ここでは日常茶飯事。母も2回転倒し、一度目は鎖骨にひびが入り、しばらく腕を吊るしていた。2度目は後頭部を強く打ったが、幸いレントゲン撮影で異常はなく一応安心した。その時、母に不思議な現象が起こった。ベッドに横たわっていた母が、元気だった頃の母に戻っていたのだった。気のせいかと思ったが、話し方や声のトーンが元に戻っている。心配して一緒に、付き添って来た従姉妹もその光景には驚いた様子。私は「後頭部を強打したため、ショックで脳が元にもどったのかしら」と、従姉妹に冗談を話したぐらいであった。しかし、その期待も虚しく、翌日には、また不安状態の母に戻っていた。

 週2回、入浴の日であった。私は必ず母を入浴する前に病院へ着くようにした。というのは、この病院では入浴前に患者に検温チェックをしないのである。入浴の日、私は母に微熱があることに気付き、看護師から体温計を借りた。37.3度の微熱があり、それでも入浴させようとするのは、老人には非常に乱暴な行為である。老人にとって肺炎は怖い。病院には委ねることは出来ないため、入浴の良し悪しは、いつも私が決めることにした。

 9月中旬、病棟に入り、母の異様な姿が眼に入ってきたのである。ナースステーションで母は身体をひどく震わせ、看護師に支えられていた。困惑していた看護師から、薬の量を増やしたら、母の状態がおかしくなったと私に説明してきた。薬の名前を聞いたところ「リスパダール。」と答え、私には初めて聞く薬だった。気分を落ち着かせる薬だそうだが、母は、入院中とても静かにしていたのになぜ?と私はひどく疑問と不信感を病院に抱いた。しかし、ここから母と私の地獄の介護がまた新たにスタートしたのだ。

 病室に入ると、母は椅子に腰を掛けていた。それも頭を下げたままで、小刻みに身体が震えていた。その姿勢で一日中いると母は言う。呼吸が苦しいという母に、頭を上げるようにと私が言っても頭を上げられない。まぶたが完全に下がり、眼も開けていられない状態。唾液を飲むことも出来ず、口からダラダラと涎を流し続けていた。当然、食事など取れない状況にあった。日に日に母は痩せていき、等々入れ歯まで外れてしまった。これでは、咀嚼もできないと、私の頭の中は混乱と不安でいっぱいになった。身体全身が強張り、歩くことも出来ず、一日中、身体を震わせている母。
最悪な事に、私の名前すら思い出せなくなったのだ。私に向かって「あきちゃん、あきちゃん」と、父の妹の名前を言い続けている。私は胸が苦しくなった。
ひたすらは母「息苦しい。」「息が出来ない。」と、私に訴えてきた。医師に伝えても異常はないと答えるだけだった。もはやどうすることも出来ない状況であった。ナースステーションまで助けを求め、なんとか一人で歩いていったのであろう母は、「息苦しいのです。助けてください。」と必死に看護師に助けを求めているのにも拘らず、スタッフが全員が無視をしているところに私は病院に到着し、その光景を目の当たりにしたのである。
気が狂った老人の戯言とでも思っているのか・・・。ここでは、このようなことが当り前のように起きていた。なんて恐ろしいところだ!と私は思った。

 母は薬の副作用から口渇を訴え始めた。一日中、深夜にも病室の厨房に立ち、水を飲んでいると看護師から説明を受ける。病院は、部屋中が水浸しになったと言い、厨房の蛇口を外されてしまった。水分を多量に取っているせいで、母の足はひどく浮腫んでいた。毎日、足先から太ももにかけて、循環がよくなるように私はマッサージを続けた。ドリンク用として持参したミネラクウォーターは、すべてのペットボトルのフタを外し、水は半分まだ残っている状態で部屋中に散乱していた。ペットボトルの水を飲むことすら、なぜか母は怖がった。挙句の果て、母は廊下にあるトイレの水を飲み始めたのだった。

 母の異変で、周囲の患者の人達も心配してくれた。副作用からであろう、皆、能面のような顔つきをしながら「お母さん大丈夫?」「お母さん苦しそう。」と私に近づいて呟く。なによりも、隣の病室にいる不気味な老婆までが私に近づき「お母さんを助けてあげて。」と意思表示してきたのだ。これには流石の私も驚いた。今まで一度も声を発生したことがないのに・・・。
さらに、いつもお部屋のお掃除に回ってくる叔父さんが「お母さん、落ち着いていて元気だったのに、なぜこんなことになったんだ!」「お母さん、トイレで水を飲んでいるよ。」「ここの患者さんは、口が渇くみたいで、他の階でも若い人達がトイレで水を飲んでいるんだ。」と、お掃除の叔父さんは悲しい表情を浮かべ、正直に話してくれた。

 この病院にいると母は殺される。一刻も早くこの病院から出そうと、私は決心した。転院のための病院探しには実に苦労した。どこの大病院も、精神科病院からの転院は断られる始末だ。都内に老人専門の病院を2件見つけ、藁をもすがる思いで、K区のJ病院とI区のT病院に電話をした。いずれも3ヵ月待ちと言われたがキャンセル待ちを予約した。H病院の主治医にセカンドオピニオンを希望するということで、診断書を依頼した。診断書には、「色々手を尽くしたが回復は不可能」と記載されていた。

 平成19年9月下旬。T病院から、キャンセルが出たと連絡があった。予想していたより早かった。母は、微熱がずっと続いていたため、私が母の代理で精神科を受診した。外来のY医師に、今までの母の経緯を詳しく説明した。Y医師は親身に私の話に耳を傾け、「それは薬の副作用ですよ。」と正直に答えてくれた。薬の処方の多さや、副作用に疑問を抱いていた私は、その時「やっぱり!」と確信した。Y医師は「主治医の先生に報告書を書きますから、もう一度主治医と話し合ってください。」と、親切な対応をしてくれた。嬉しかった。やっと本物の医師に出会えたと、光が見えたような気がした。不思議だが、Y医師なら母を絶対に治してくれると、その時、なぜか私は直感した。
残念ながら、病室は満室で直ちに転院は難しいと断られたが、取りあえず、手順を踏み、H病院で主治医に相談することにした。

 H病院での病室。主治医のA医師が母の病室を訪ねて来た。私の顔を見るなり「あんた行ったの?」と、不機嫌そうな表情を浮かべ言葉を発した。それ以外はなにも話さず、嫌な空気が流れる。Y医師からの報告書が、余程お気にめさなかったようである。報告書には『ご家族のお話によれば、以前より特に流涎、仮面様顔貌、動作緩慢が増えたことを心配されておられました。ご本人を診察していないため断定できないと断った上で、薬剤の影響もありうると説明しましたが、一方で現在発熱が続いており、誤嚥性肺炎や、その基礎となりうる認知症の有無も含め、もう一度主治医と相談されるようお勧めしましたところ、納得されました。』という内容であった。A医師は非常勤で、週2回は、この病院へ出勤する。私は、毎日、病院へ来ているが、A医師が母をきちんと診察している姿を見たことは一度もなかった。
一患者の家族に対して、医師という責任ある立場でありながら、なんという稚拙で無礼な対応であろうか! 私は呆れて言葉も出なかった。その頃、凶暴性がやや出ていた母は、病室を出るA医師に対して「バカヤロウ-」と言い放った。母の暴言には驚いたが、私の言いたいことを母は代弁してくれたと褒めてあげた。

 私は、顧問弁護士に、母の事を相談した。すると、顧客に良い精神科医がいる聞き、早速、L区の某クリニックのE院長を紹介していただいた。
書物でE院長のプロフィールを読んで私は感動した。大学の医学部に在学中、同級生がうつ病でデパートの屋上から飛び降り自殺をした。その同級生は自死する前、当時、同級生であったE院長に遺言書を残したというのだ。「うつ病患者の苦しみ、そしてその遺族の悲しみを君なら理解できる。精神科医になって苦しんでいる人々を助けてほしい。」という内容だったそうである。その重い十字架を背負ったE院長は精神科医という職業を選択し、さらに宣教師としても従事した。自死遺族会グリーフケアという団体を結成し、頻繁に会合を開き、今尚、人助けに力を注いでいる。

 E院長に、今まで母に処方されてきた向精神薬の薬歴を観てもらった。
「高齢者に対してこんなに沢山の薬を与えてはいけない。」と、E院長は頭を抱え、驚いた表情を浮かべた。しかし、それよりもE院長は私の体を心配してくれた。当時、私は心身ともにボロボロになっていた。夜は、毎晩、眠剤がないと不安で眠れなかった。母の介護に関して、兄夫婦とは見解の相違から、一切、私とは没交渉になっていた。そんなこともあり、E院長の計らいでクリニックのデイサービスをしている精神福祉士を私に付けてくれたのだ。今まで、ずっと母を一人で介護を続けてきた私にとって、とても有難く感謝の気持ちで一杯になった。

 私は、早急に、母をあの恐ろしい病院から連れ出す定案をした。入れてくれる病院がなかったら、私が家で母を看るという覚悟を決めたのだ。主治医としてE院長に家に往診に来ていただくようお願いした。とにかく一か八かだった。H病院の主治医とソーシャルワーカーに、母を退院させ家で看ることを伝え、退院に向け準備をすることにした。今迄、ここまで強行に出た家族はいなかったようで、病院側はとても驚いていたことを、後で知る事になった。
退院の前日、従姉妹も交え、私と一緒にA医師からの説明を聞くことにした。「お母さんに色々薬を試しましたが、すべて効きませんでした。」「お母さんはうつ病ではありません。」と驚き発言。精神疾患ではない事を告げた直後、A医師は「あんなに悪くなって大変でしょうから、最悪な時の頓服も出しておきましょう。」という始末。退院時に処方された薬は、日常の薬と頓服をも含め、山のように手渡されたのである。うつ病ではないと診断されたのにも関わらず、なぜ?多量の向精神薬を処方されなければならないのか・・・。すでに、A医師には信用をまったく失っていたので、私は何も反論する気すらなかった。

 平成19年10月10日。母を移動するため、タクシー会社からリクライニングシート付きの車を頼むことにした。精神福祉士の人が手伝いに来てくれた。道中、母は息苦しいと口走っていたが、高速を使い45分程で家に到着した。久々の我が家。母を父が祭られている仏壇へ誘導した。まぶたが下がり覇気のない顔。母は、震える両手を仏壇の前で合わせていた。父はどんな想いで、母のこの姿を見ているのだろうと思うと、実にやるせない気持ちになった。

 久々、家に戻った母は安心したのか、私の部屋のソファーベッドで熟睡した。
痩せて入れ歯を装着できなくなった母の為に、私は苦心しながら夕飯の準備をした。ほんの少しではあったが、美味しいと言いきざみ食を口にした。H病院での不安そうな母の顔とはまったく違い、穏やかな安堵の表情を浮かべていた。翌日、午後から、精神福祉士の方が、様子を見に家を訪ねて来てくれた。私は2時間という決められた時間内で、食料の買出しに出かけた。帰宅後、やはり母は口が渇くせいか、飲み物を頻繁に要求してきたと福祉士から伝えられた。母は、不安で福祉士にずっと寄り添っていたとのこと。なんとか一日が終わった。
  1. 2012/07/23(月) 22:16:14|
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総合病院へ転院-またしても裏切り

 その翌日、帰宅して3日目だった。朝6時半、しっかり熟睡して目覚めの良かった私は、隣に寝ている母の部屋に入り、様子がおかしいのに気が付いた。母は、苦しそうにベッドから身を乗り出し、息苦しいと言ってうろたえていた光景が目に入った。検温したところ38.5度の高熱。慌てて救急車を呼んだ。救急隊が母の人差し指から、体内の酸素量を測っていた。78という数字が耳に入ってきた。正常は95以上あれば問題ないそうだ。刻一刻、容態が悪化する状態であった。救急隊は、入院していたH病院に戻ることを勧めたが、私は断固として断り、救急隊員を困らせた。興奮していた私は「あの病院へ行ったら殺される!やっと退院させたのに!」と、声を荒げてしまった。

 平成19年10月12日。
私の我儘を受け入れてくれた救急隊員は、必死に病院を探し、結果、近くのS病院に辿り着いた。母を診察した若い女医から、最悪の事を考えてほしいと待合室で言われた。「またか」と思い酷く落胆した。もしこれで母と最後になったとしても、2日間、母と時間を共有でき良かった、と思うよう無理に言い聞かせていた自分がいた。一人で待合室にいるのが不安だったのか、無意識にボリボリと爪のネイルを剥がすという異常な行動をしていた。とにかく不安でじっとしていられなかった。

1時間が経過した頃、母が安定してきたと医師から嬉しい説明を受けた。
早速、入院の手続きをすることになった。病棟に入り、酸素マスクと点滴の処置を受け、静かに母は眠っていた。丁度、その時、E院長が心配して病院に駆けつけてくれた。若い2人の呼吸器内科の医師が担当(T医師、O医師)ということで病室に入ってきた。私とE院長は別室に呼ばれ、医師2人に今までの経緯を詳細に説明した。恥を偲び、母はそれまでに自殺未遂や暴行に及んでしまった辛い事実を、私は2人の医師を信じ伝えた。向精神薬を服用してからは、母は別人の様に変わってしまったことや、H病院でリスパダールを処方されてから、さらに症状が悪化し、今まで以上に酷い状態になったことを、私は正直に説明した。医師2人はきちんと理解してくれていると、その時、私は思っていた。それから、肺のレントゲン写真を見ながら医師は説明を始め、H病院を退院してよかったとO医師が言い始めた。「右肺の殆んどが真っ白です。」「そのために呼吸困難になっているのです。」「はっきりとは断定できませんが肺がんの可能性もあります。」と、T医師から深刻な説明を受けた。兄の次は母が肺がん?煙草も吸わないのに?O医師からは、リスパダールは単なる抗不安剤で危険な薬ではないと言ってきた。O医師の説明には反論しなかったが、明らかに母は、向精神薬の多量投与で悪化したと私は理解していた。人間は、皆、マニュアル通りではない。年齢、体格、体質は、皆、違う上、副作用の症状も異なるはずだ。そこは、まだ若い医師だから仕方ないと、私は特に反論はしかなかった。

翌日、主治医のT医師は「抗生剤が効いたようで、右肺の影が小さくなりました。」「良かったですね。肺がんではなかったです。」と説明があり、私は安堵した。病室で、母は静かに眠っていた。入院3日目、T医師が「ちょっと患者さんに困っているんですよ。何とかしてください。」と、昨日とは違い、怪訝な顔で、私に言葉を発してきた。病室に入ると、母はまた不安そうな表情を浮かべ、身体中を震わせていた。今後も懸念される中ではあったが、私はやっと一般的な総合病院に入院ができた喜びから、これからは他の診療科と連携しながら、母には適切な治療が受けられるだろうという、一縷の望みを持っていた。

 ところがその期待は、見事に裏切られてしまったのである。主治医となった2人の若い医師から、母と私はイジメに遭ったのである。自殺未遂、暴行行為に及んだ狂った老人なんか早く出て行けと言わんばかりの嫌がらせを受けたのだった。母は肺炎も落ち着き、熱も下がり容態は安定していた。しかし、まだ食欲はなかった。T医師は「もう食べられるはずなのに、食べたくないんだろう。死にたかったんだから。」と、心ない言葉を私に浴びせ、ふてぶてしく病棟の廊下を歩いていった。老人は若い人とは違い、回復には相当な時間が必要である。やせ細り、入れ歯を装着できなくなった母にはとろみ食が出たが、見るからに食欲失くすものであった。売店で、口当たりの良い栄養剤のゼリーやヨーグルト、プリンを少しずつ私は母の口には運んだが、やはり飲み込むことに非常に過敏になり、喉を通すことが非常に難しい状況になってきた。

 既に、物事の判断すら厳しい状態になった母。後見人制度等の手続きの為、医師との面談と診断書を書いてほしいと弁護士から話があった。そのことをT医師に伝えたところ、いきなり高飛車に「弁護士を病院へ連れてくるなんてありえない。今までそんな話聞いたこともない。」と意味不明なことを言い出し、私は困惑した。弁護士とは、父の時代からのお付き合いで、今回、母へのお見舞いの意味もあったからだ。その事を説明しても「弁護士に声をかける前に、こっちに声をかけるべきだろう。」「こっちは忙しくて時間がない。」「そんな責任のある診断書なんて怖くて書けるか!」と、目を背けながら乱暴な言葉を私に投げつけるように発した。私は恐ろしくなり、なんだか訳も分からず、私はT医師に謝罪したのだった。すると「あんな精神科医(E院長)を連れてきて失礼じゃないか!」「一日だけ顔を出して医師として無責任だ!」と、T医師は、なぜか怒りまくっていた。
E院長は、出しゃばってはいけないことは十分に理解した上で、私の心身を案じて病院に駆けつけてくれたのだ。それもたった1度だけ。
病院に世話になっている間は、煮えくりかえった感情を、私はグッと腹に抑えることにした。精神科病院からの転院というのは、これだけ世間から偏見な目で見られ、冷たい対応をされるのだと、痛いほど思い知らされた。

 翌日、母に食事が運ばれなかった。即座に、T医師の嫌がらせと直感した。そこに研修医のO医師が病室へやって来た。昨日のT医師とのやり取りを、既にO医師は耳にしていた様子を感じた私は、「私の言い方に誤解を招くことがあったようで・・・ごめんなさい」と、一応謝罪した。正直、私は誤ることはないのだが、万が一、母に嫌がらせをされたら困るので、とにかく入院をしている間は、低姿勢に行動する方が利口だと思った。
「母を絶対に救う」その一心で行動していたからこそ、どんな事でも耐えることが出来たのかもしれない。

 入院して10日程経過し、母は少しずつ食欲が出てきた。病院食は美味しくないので、私は母の好きな物、栄養価の高い高カロリーの物を作り、ミキサーで粉砕し、昼、夜の2食分を病院へ持参した。さすがに朝食までは準備ができないため、病院から出る牛乳やジュースを飲んでもらうことにした。
入れ歯がないために、ドロドロしたものを私はスプーンで母の口に運んだ。
味が良かったせいか、よく飲み込み、ほんの少しではあったが、母は全体的に肉付きがよくなり嬉しかった。

僅かながら、順調に回復していた10月下旬頃。またもや母は、高熱を出してしまった。嚥下性肺炎と診断されたのだ。再々度、又、母は食べられなくなり、点滴で栄養を送る事にした。多くの向精神薬を服用した副作用のため、母は飲み込む力が衰え、悪化する一方であった。そのため、痰を自力で出すことすらできない。T病院に入院してからは、鼻と口から痰を看護師に吸引してもらっていた。幼少の頃から、母は慢性副鼻腔炎であった。吸引しても、また直ぐに痰が出る始末。呼吸困難になる為、頻繁にナースコールを押さずにはいられなかったのであろう。その行為は、病院からとても煙たがられてしまった。患者は、母だけではないので、忙しい中、私も申し訳ない気持ちで恐縮した。
しかし、痰が喉に詰まり、息苦しくなるのが、母は怖かったのだと思う。病院と母の間に挟まれ、私は常に気苦労が耐えない状態で、神経が磨り減っていた。

 秋も深くなった11月。熱も下がり、そろそろ点滴を外してもいいとO医師から説明を受けた。しかし、喜んだのも束の間、これまた高熱が出て、今度は母の意識が朦朧としてきたのだ。医師達も焦った。しばらく原因は分からなかった。もう点滴も外せなくなった。2~3日経った頃、T医師から、おそらくインフルエンザでしょう。そうなると、タミフルを使用することになりますと淡々と語った。

久々に区役所から認定の調査員が病院へ訪れた。というのは、兄夫婦のところへ母が行っていた頃、認定の継続手続きをしていなかった為、途中で中断されてしまったのである。再度、申請書を提出し、調査の結果、要介護3と認定された。週末の日曜日、看護師が見たこともない点滴を準備していたのが目に入った。看護師に何の薬か聞いてみた。すると「先生からまだ伺っていないのですか?」「お母さまはMRSAという感染症にかかりました。」と説明をされたが、何のことかさっぱり理解ができなかった。帰宅後、早速PCで「MRSA」を検索した。院内感染の恐怖と書かれ、黄色ブドウ球菌のことだった。黄色ブドウ球菌は、鼻、喉の粘膜に多くいる細菌であったことが分かった。
私は、主治医から「MRSA」という深刻な病気に母が感染した事を、一切、知らされてはいなかった。というか、医師達は感染症になったことを、親族には、知られたくなかったと理解する方が正しいだろう。

母を見舞いにきた友人に伝えたところ「やっぱり!」という返事が返ってきた。母の鼻、口から痰を吸引する際、看護師は、一切、消毒していなかったのに疑問を感じていたと友人言う。確かに、吸引に使用していたカテーテルは、吸引する度ごとに消毒はしていなかったのは確かだった。しかし、准婦長だけは、丁寧にカテーテルを扱い、慎重に消毒を行っていたのは覚えている。准婦長以外は、皆、杜撰で怠慢な看護師が多かったのは事実。使用したカテーテルは、そのまま水の入ったビーカーに突っ込んでいた。そして、それをまた使用するのである。病院でありながら、不衛生としか言いようがない。
母のように高齢で、体力が弱っている場合には、肺炎を避けるため、病院は隔離しなければならない。と友人は教えてくれた。病とは殆ど縁のなかった私には、聞くことすべてが始めてで、目からウロコ状態。言われてみれば、病棟の廊下にブルーの大きいゴミ袋があったことを思い出す。そのゴミ袋は、毎日、いっぱいになり、それには感染症と大きく書かれていた。ということは、ここでは多くの患者が感染していたのか!? こんな大病院までもが、こんな杜撰な事を・・・。
既に、感覚が麻痺していたのか、医療機関を一切信用しなくなっていた私には、何が起きても驚くことはなかった。

  1. 2012/07/23(月) 22:20:23|
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総合病院での経過・退院

 平成19年12月師走。母は、もう1ヶ月以上も食事を摂っていない。ベッドの中で小さく痩せ細っていた。点滴だけの栄養しか摂取できない為、皮膚もカサカサになっていた。体中のいたるところに、床ずれができていた。特に腰のあたりは水ぶくれになる程ひどかった。ベッドに横になっても、椅子に座っていても、身体に物があたるところはすべて苦痛を伴った。私の介護は、すでに限界を超えていた。私は自営の為、時間は自由になったが、流石に、他人に委ねることを考慮していかないと、私が寝込む事は、絶対に許されなかった。
毎日、午後2時から6時まで母に付き添っていた。その後は、介護ヘルパーに一時間半、母を看てもらうことにした。寂しがりやの母にとっては、病院の個室は暗く冷たく、そして長い夜が始まる地獄の空間。わずか一時間半だったが、プロに毎日来てもらえることは、私にも精神的な安らぎを持つことができた。感情失禁という症状が出る母に付いていけなかったのか、2人いるヘルパーのひとりは、直ぐに辞めてしまった。残った一人のヘルパーはベテランで、老人の扱いには、実に手慣れていて助かった。また、介護している私にも心強いサポートをしてくれた。本当に感謝の気持ちでいっぱいになった。また、生前、父の無二の友人であった歯科医のC先生から、大阪からずいぶんと励ましのお電話をいただいた。子供の頃から姉妹のように育ってきた同じ歳の従姉妹は、家庭がありながらも時間を作って協力してくれたことが、私にとって大きな支えであった。

 病院のエレベーターにヘルパーと一緒に乗っていた時だった。中年の粋な着物を着ていたご婦人が、ヘルパーを見るや、いきなり声を掛けてきた。聞くところによると、中年女性の高齢のお母様を、そのヘルパーは、以前、介護していたとのこと。女性とは同じフロアーで下りた。突然、女性が「主治医がとんでもないのに当たった」と口走った。主治医の名前を聞くと、母の主治医と同じT医師だった。私は一瞬、良かった!家(うち)だけではなかった。と妙に嬉しかった。 女性に事情を聞くと、高齢のお母様は肺炎を起し、緊急入院したとのこと。しかし、末期の肝臓癌からいつ何が起きてもおかしくない状態であったと言う。それでも少量ながらも、お食事は美味しく食べられるとのこと。そこで彼女は、近くのK病院ならホスピスがあり、そこへ転院したいとT医師に相談したそうだが、T医師からは「ホスピスは若い人がはいるところ。認知症の症状がある高齢者が入るところではない。」と、冷たくあしらわれてしまったようだ。余程悔しかったのか、女性は涙声で話してくれた。

女性は、T医師から浴びせられた数々の暴言を、すべて記したノートを、私に見せてくれた。詳細にぎっしりと書かれていたのには、正直驚いた。T医師の心無い発言に傷ついた女性は、大泣きしながら病院の玄関を出たと話し、その時、守衛の男性が心配して声をかけてくれたそうである。更に、病棟では、高齢の男性患者に対してT医師は怒鳴りつけ、その患者は脅えていたところに女性は遭遇したとも話してくれた。T医師は、余程、高齢者がお気に召さないようだ。高齢者の介護に心身ともに疲弊している介護者の気持ちが、この若い医師には理解できないのであろうか・・・。いや、若い医師だけではなく、今まで、私が携ってきた医療従事者全員が、老人の心と体の変化をまったく理解していない。と自信を持って言いたい。
いつまでも老人を成人と思い込み、扱い方が分からないのである。
しかし、このような現状が変わらないことには、介護者は、心労から自殺を選択するという最悪なパターンからは回避できないと、私の経験上、強く感じた次第である。

 平成19年12月上旬。T医師から「胃漏」をするしか手段はないと説明を受けた。私は、その前に嚥下のリハビリを試してほしいとT医師に頼んだ。案の定、T医師は、嚥下のリハビリをしても無駄という返答をしてきた。患者に最善を尽くすのが医師としての勤めであろうと認識していた私はひどく立腹した。つくづく悪い医師に当たったものだ!もう医師など信用しない!その時「母は絶対私が治す!」と決心したのだった。母は弱っていたが、一日2時間、私独自の嚥下リハビリを考案し、母に色々な口の運動を試した。舌の運動、口を大きく開ける運動、声を出す運動、童謡も一緒に歌った。それだけではない、廊下は手を繋ぎながら歩かせた。病院の窓から外を眺めた時だった。母は「黒酢の酢豚が食べたいなぁー」「銀座で美味しい物を食べたい」と、覇気のない声で呟いた。「また一緒に銀座へ行って美味しい物を食べようね。」とにかく、前向きに物事を考えられるよう、私は言葉選んで母と会話をするよう心掛けた。
しかし、母は「もうあかん。」と、小さな声で呟く。私はそんな弱気になってしまった母を認めたくなかった。「全身全霊で治す!」その一途な気持ちを私は決して忘れず、ベッドに横たわっている母を、血行をよくするために、毎日、全身をマッサージした。20分の足湯も欠かせない。時より、母はしんどいと言って嫌がった。それでも、私は一日も休まずリハビリを続けた。家に帰ると私もヘトヘトふらふらで、食欲もないほど私は疲れ切っていた。

その一方で、体重27キロのやせ細った老いた母に対して、私はなんて過酷なことをしているのかと、自責の念に駆られた。しかし、最後の最後まで、私は諦めたくなかった。そんな中、母は自力で痰を出せるようになった。奇跡だ!奇跡が起きたのだ!嬉しくて、さっそく准婦長のところへ飛んで行き、そのことを知らせた。日々、私のリハビリを観ていたのか「娘さんには敵わない」と、微笑みながら一緒に喜んでくれた。喉の筋力が戻ってきたのだ。
「食事が食べられる!絶対に!」「そうだ!入れ歯を作ろう。」私は歯科の受診を看護師に頼んだ。しかし、一向に話が進まないというか、誰も動いてはくれなかった。再度、頼んでもずっと無視を続ける始末。
これが最後の手段と思い、私は医師2人に手紙を書いた。やっと、歯科の受診が受けられることになった。朝9時から歯科の受診ということで、私は8時半に病室に入った。眼に入ってきたのは、O医師が慌てた様子で母に吸引を施していた。近くに婦長も立っていた。母は真っ赤に顔を腫らし、息苦しそうにして咽ていた。婦長は、困った表情を浮かべ「すみなせん。ナースコールの元が外れていました。」「真に申し訳ありません。」と私に深々と謝罪してきた。
ナースコールの元は、しっかりと強くはまっているものであり、簡単に外れるものではない。夜中に、寂しさ、不安から母は頻繁にナースコールを押したのであろう。それを看護師の誰かが疎ましく思い、意図的に外した。非常に残念ではあるが、私はそう疑いを持ってしまった。朝、痰が喉に詰まった母は何度もナースコールを押したが、誰も病室に来なかった。たまたま、廊下を歩いている時に、誰かが苦しがっている母に気付いたのだろう。まさに間一髪だった。

結果、母は入れ歯を作ることが出来た。幸い歯科医には恵まれた。
私は胃漏を造接する前に、嚥下の検査をしてほしいと2人の医師に頼んだ。彼らは渋々と応じてくれた。祈るような思いでレントゲン撮影を行った。しかし、その頃から一日おきに戦振(ふるえ)の症状が出始めてきた母は、懸念していたように、その日は、戦振症状が出て不安は残念ながら的中した。レントゲン技師と一緒に影像を見た。母は緊張しながら、とろみの付いた飲み物をゆっくりと飲んだ。2回試してみたが、残念ながら飲み物は気管に入ってしまった。残念無念・・・。胃漏は余儀なくされてしまった。

 平成19年12月5日。胃漏造設の朝。母は胃カメラ室へと入って行った。
造設は簡単に出来るようで、30分程で終了した。その日の夕方から、白湯から始めた。口から薬は飲めないため、注射器を使い胃から消化剤、胃薬等を投与した。その後、T医師から、母の状態を観察してきた結果、パーキンソン病と診断したことを告げられたのである。それから、パーキンソン治療薬メネシット100gを朝夕投与がスタートした。即効性があるのか、翌日、「来年のお正月はホテルで迎えたい」と、母は予期せぬ明るい口調で話し始めた。ひどく驚いたのと同時に、天にも昇るほど嬉しかった。T医師からは「今日は最高ですね」と、珍しく機嫌よく私に話してきた。
これこそが本来の母の姿。私としては何ら不思議を感じなかった。
就寝前、安定剤としてジプレキサを処方されていた。深夜の巡回中、病室に入ると、大きな目を開け、一切、母は寝ていないと看護師から報告を受けた。
「大丈夫ですか?」と看護師は声をかけると「大丈夫。」と母は答えたと言う。

 病院は一般的には3ヵ月で退院させられる。その為、私は医療設備の整った老人施設を探し周ることにした。当時、中々、認知症や精神疾患、感情失禁の症状があるような老人を受け入れてくれる施設は殆んどなかった。あったとしても、すでに満室という状況。
区役所に相談し、信頼性の高い介護施設紹介センターを紹介もらった。色々と
検索して、ようやく母に適している施設を見つけることが出来た。年明けには入院して3ヵ月になる。2人の医師も、それを目処に処置しているというのが感じられた。夕方、2人の医師が病室を訪ねてきた。その時、入居する施設が見つかったことを報告した。入居審査のため、医療情報提供書と看護サマリーが必要なことを伝えたところ「家政婦の首を絞め、措置入院した人間が施設に入れるわけがないだろう。」薄笑いを浮かべたT医師は、私に対して屈辱的な言葉を浴びせてきた。そしてO医師と2人で笑いながら廊下を歩き去っていった。想定内とは言え、2人の乱暴な言動には、未だ私の脳裏から離れない。深い悲しみと強い憤りを感じた。母は措置入院ではなく、任意で入院したのだ。その直後、精神科医のB医師が病室に訪れた。私はB医師に、2人の医師から屈辱的なことを言われたことを話した。B医師は苦笑した。施設に入れるのならその方が良いと思うとB医師は返答してきた。
その30分後、2人の医師から話があると言って、私は別室に呼ばれた。そこにはB医師も同席した。B医師に忠告されたのであろう、2人の医師は別人のように真摯な態度で私に対応してきた。施設の概要を聞いてきたので、私は淡々と説明した。

 クリスマスも近くなってきた、母は胃漏を造設して1週間が経過した。
それこそ1滴の水も飲めない状況であった。嚥下性肺炎を避けるため、唾液すら飲むことは禁止されている。栄養分が体内に回ってきたせいか、心なしか母はしっかりとしてきた様子。病院のロビーでクリスマスの催しがあると看護師が教えてくれた。母は行きた言い出し、それもロビーまで歩いて行くというのだ。今まで車椅子を使用していたが、自分で歩くと言い、積極的になった母の姿を見て、看護師達も驚いていた。ロビーに着くなり、一番前に母は座ると意思表示をしてきた。元気だった頃の母と同じ雰囲気を感じることが出来、私にとって、ちょっぴり幸せな一時であった。

 平成19年も終わりに近づいてきた。その頃から、母は話す声が少し大きくなってきたことに、私は気付いた。さらに、また口渇を訴え始め、口の中に痰がいっぱいあると言い出した。「またか!」と、私は落胆した。口の中が気持ち悪いと訴える為、入れ歯を外し洗浄した。舌にはコケが生えないよう、専用ブラシで、常に口の中は清潔にしていた。母は自ら何も出来なくなっていたので、私が母の顔を洗顔し、化粧水、乳液を付ける毎日であった。洗髪は一日おきにして清潔に保った。

久々に入浴の許可が出た。看護師には頼まず、私が母を入浴させた。胃漏をして29キロと2キロは増えたものの、それにしても、母の体は骨と皮であった。しっかりとしていた体格だったのに・・・。言葉では表現できない程、悲しかった。悔しかった。なぜこんなことになってしまったのか・・・。
病院内には理美容があり、髪の毛のカットと顔剃りもした。
どんな病症にあっても、女性として母を精いっぱいきれいにしてあげることが、私の生きがいでもあり、そして、娘としての使命感を感じていた。
母には「食する」という、人間として唯一の楽しみを奪われたのだから。

 病室には小さな冷蔵庫がある。そこに、私は自分が食べようと思ってみかんを入れていた。食べ忘れたみかんを、翌日、冷蔵庫から出そうと開けて見ると、そこにはみかんは無かった。母は「私、夕べTVを観ながら食べたわよ」とさらりと言う。「みかんを食べた!?」私は直感的に、母は食べられるのだと思った。素人判断ではあるが、経菅食で栄養が付いて力が付けば、母は絶対に食べられるようになると確信した。T医師の説明では、最初の経菅食は朝昼夕で一日900カロリーと説明があった。状態が良くなったら、少しずつカロリーを上げると聞き、私は楽しみにしていた。そろそろ、カロリーを上げてもいいのでは?とT医師に打診してみた。すると予想もしない言葉が返ってきたのだ。
「寝たきりだから、1日900カロリーで十分」と言い出し、最初の説明とはまったく異なっていた。さらに、経菅食の液体が入った袋にはダイエットカロリーと記載されていた。体力を付け、太らなければならない母に、なぜ?いつまでもダイエットカロリーを続けるのか、私はまったく理解が出来ないでいた。再度、私は怯まず、カロリーをせめて1日1200にしてほしいとT医師に申し出た。すると、胃の壁に負担をかける等、なんやら難しいことを言い出した。
そもそも、T医師は、母を治療するという気持ちがないのである。
退院後、カルテ開示で分かったことだが、カルテには900カロリーから1350カロリーに上げたと記載されていた。明らかにこれは虚偽ではないか!!

水分量は1日200ccだった。ベテランのヘルパーは「あれでは水分量が少なすぎる。絶対におかしい。」と、私に強く主張してきた。おまけに、看護師は遺漏の液体をボウルに入れとろみを付け、そのままラップもしないで1時間放置したものを母の胃に注射器で注入していた。ヘルパーも呆れ果て言葉を失っていた。朝、病室を訪れた時だった。注射器から経菅食の液体が飛び散ったようで、病室の窓ガラスにいっぱい液体が付着し、その為に、部屋中が生ゴミのような悪臭が漂っていた。向精神薬の副作用により、感情失禁がある母は、看護師からは厄介者だったのであろう。それにしても、病人に対して、これ程までの酷い仕打ちは、一般常識として、到底信じられない行為である。
更に、ヘルパーの洋服にも経管食の液体を飛ばし、看護師から「あらごめんなさい」の一言だけだったと言う。クリーニングに出しても、油分が付着し取れないと溢していた。名の知れた大病院でありながら、極めて杜撰な衛生管理であることに、私達は強い憤りを感じた。

 平成20年の年が明けた。辛く寂しい元旦。病院に行く前に近くの神社へ参拝し、母のために病気平癒のお守りを買い、その足で病院へ向かった。
退院の日が1月13日と決まり、施設の審査もなんとか無事にパスをしたが、又、それまでもが大変だった。看護サマリーを確認したところ、事実とは全く異なった杜撰な内容が記されているあり様。お陰で、2回提出する羽目となった。
退院後、直接、施設へ入居することになる。不安ながらも母は楽しみにしていた。T医師からは、もう安定していると軽々しい診断をしていたが、毎日、母の状態を観ている私には、不安を拭い去れない状況であった。
漠然とではあるが、安定している日、又、そうではない日が、一日おきに症状が出て来たことに気付き、更に、母の声が異様に大きくなり始めたのを感じていた。呼吸器内科部長のP医師を先頭に回診の時だった。P医師は、母に何かを質問をしたが、きちんと答えることが出来なかった。その母に対して「だめだなこりゃ」と、部長医師までもが、患者に対して屈辱的な言葉を発したのだ。
それも親族である私が傍に付き添っていたにも拘わらずである。母がきちんと答えられなかった事に、若い数人の医師達が顔を見合わせて笑った。母が可哀想で哀れに思い、心の底から悲しい悔しい思いをした。母親の年代の人達は、若い頃、皆辛い戦争を潜り抜け、そして必死に頑張ってきたからこそ、今の日本があり、だからこそ彼らも大学の医学部で学ぶ事が出来たのだ。その必死に頑張ってきた人達を、なぜ嘲笑うことができるのだろうか? 一体、今の日本の教育はどうなってしまったのか? 両親からは、どんな教育を受けたのか?と、私は怒り心頭になった。
「医は心」と教えられてきた私には、この質の低い医師達の言動には、とても安心して身体を委ねることはできないと強く失望した。

退院まで後2日となった時だった。外出先に看護師から連絡が入った。
「お母様が一人でナースステーションに来たので、すぐに病院へ来てほしい。」という内容だった。老人の転倒を懸念するため、ベッドの脇にナースコールのマットが敷かれていた。頭の良い母は、それを避けて一人でナースステーションに行ったようだ。急いで私はタクシーを飛ばし、病院へ向かった。母は私を見るなり「あら、どうしたの?」と、何事もなかったかのように答えてきた。母に、なぜ一人でナースステーションに行ったか尋ねたところと「夜の食事(経菅食)が遅かったから、ナースステーションへ行って看護師に胃漏の食事を頼んだ。」と、はっきり返答してきた。前にも述べたように、母は栄養状態が良くなり、パーキンソン治療薬メネシットの効果なのかどうかは分からないが、脳内のドーパミンが活発になってきたのは確かなようだった。しかし、そんな母の様子に驚いたのか、O医師は、母の行動を抑制する注射をしたことを、後に看護師から説明を聞いた。しかし、その処置には、私は疑問を感じる。相変わらずその件に関しても、医師達からの説明は無かった。

カルテ開示で分かったことだが、この病院の精神科医であるB医師は、老人性うつ、不安障害、パニックと診断し、向精神薬を続行するとカルテに記載されていた。入院時、私は2人の医師には、母の症状は、向精神薬の副作用が原因であることをきちんと説明したにも拘らず、その事がまったく伝わっていなかったと理解できる。何度もB医師と面談したいことを主張したが、2人の医師や看護師に伝えても、一切、行動には移してくれなかった。
  1. 2012/07/23(月) 22:23:50|
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またしても転院-介護の日々-

平成20年1月13日退院の日。
一日おきに出る体調が優れない日であった。リクライニング付きのタクシーに母を乗せ、施設まで直行した。施設の部屋へ連れていっても、母の不安は治まらなかった。施設のスタッフもやや困った様子であった。小さな子供のように母は駄々をこねる。初めての老人施設での対処が分からない私は、入居する前に、周囲の知人達に、入居後の対応を参考までに聞いていた。最初は、どんな老人でも家に帰りたいと言うとのこと。自立をさせる為には、頻繁に面会しない方がベスト。月1~2回で十分というアドバイスを受けた。なによりも自分の人生を大切にした方が良いと、大半の人がそのように回答してくれた。老人施設へ入居させた後、母とはどのように携わってよいか分からない私にとっては、とても有難いアドバイスと受け止めた。しかし、親を施設へ入れることを賛成する人ばかりではなかった。「親を施設へ入れるとは何事!」と、懇意にしている友人が猛反対をしてきたのだ。「親は子供が看るべきでしょう!」「お母さんは施設より家がいいに決まっている。」と、これまた怒りまくってくる始末。
施設というだけで、今どきこんな偏見を持っている人がいるのか?と、正直、私は耳を疑った。誰もが皆、老いて病床にいる親と仲良く一緒に暮らし、最後は看取りたいと望んでいるのではないだろうか。老いるということは病むこと。親が病めば、子として看病、介護するのは、当然と考える。しかし、その家庭により、また、親の病状によっては、仕方なく施設へ預けなければならない場合もある。無理に在宅介護をした結果、家庭崩壊となってしまうケースも多々ある現状だ。其々、人は皆、違った環境で生活をしている訳で、選択肢も色々あってよいと思う。双方の幸せを考えれば、老人にとって施設での生活の方がベストなこともある。老人介護の経験がない人には、おそらく過酷な介護の実態を理解していないのだと思うが、だからと言って、親の看病で四苦八苦している介護者に対して、責めるような言語は慎むべきである。それは、ますます介護者を追い詰め、孤独に追いやられ、結果、最悪なケースになる場合があるからだ。淋しい事だが、見解の相違から、その友人とは疎遠になってしまった。

周囲から、頻繁に面会をしない方がいいというアドバイスを受けたが、やはり、心配なのと施設にご迷惑をかけていないか不安だった私は、1週間に一度は面会に行く事に決めた。しかし、それでも心配になって入居2日後、結局、施設に出向いてしまった。母の部屋の扉をそっと開けた。TVも付けないで母はボーとした覇気のない顔をして椅子に座っていた。私を見るなり「侘しい」と小声で一言口走った。またもや、別人の母がそこにいた。
新しい環境の中、どのように過し、他人と接してよいか分からないのであろう。
その上、食べることが大好きな母にとって、食を楽しむ時間がないのだから。
スタッフが私にお茶を持ってきてくれた。母は「お茶!」と言って笑みを浮かべながら私のお茶を飲もうとした。私は困った。「じゃぁ、ほんの少しだけ口に入れてみる?」と言い、母の口元に湯呑みを近づけた。ほんの少量だがお茶を口へ入れた途端、「あかん、飲まれへん」と、母は悲しい表情を浮かべた。せっかく、スタッフの方が美味しいお煎茶を入れてくれたのだが、流石に母の目の前で、私だけお茶を飲むわけにはいかなかった。

 施設へ入居して1週間。施設から呼び出しがあった。何が起こったのか懸念した私は、ひとりでは心細いので従姉妹に同席をお願いした。介護室のサロンで待っていたところに、月1回検診に訪れるというT病院の、物忘れ外来専門医であるM医師を紹介された。ソーシャルワーカー、ケアマネージャーも同席した。結論として、母を今の状態では施設では預かれないと報告を受けたのだった。一日置に夜中は廊下を周徊し、時より奇声を上げ、隣のお部屋の方が驚いて夜中に部屋を飛び出したこともあったと言う。するとそこに、いきなり母の叫ぶ大きな声が聞こえてきた。「あ~これではだめだ!」と、私は心臓が止まりそうになった。M医師は「ここでダメなら何処行ってもダメだよ。」と、厳しい説明を受けた。ひとりのケアマネージャーが「経験から言って、あれだけ声を出せるなら食べられる気がします。」と話してきた。「とにかく再度入院して、しっかり治しなさい。」とM医師からご指示を受けた。M医師の計らいでT病院へ入院することになった。ベッド待ちということで、それまで施設にお世話になる為、毎日、通わなければならない状況になってしまった。私が施設に到着する迄、ケアスタッフの方々は、交代で母に付きっきりでケアしてくれたことに、本当に頭が下がる思いである。

 今まで何度も繰り返される外圧には、私の精神をもヅタヅタにした。当時、従姉妹は、私に対して自死の不安を感じていたという。久々に、私は精神科医のE院長のクリニックへ出向いた。とにかくE院長に会いたかった。近くにいたかった。待合室で3時間もの長い時間が過ぎた。自律神経のバランスを崩していたのか、身体中が冷え、その間、トイレに2回立った。
待合室には書物以外に、壁に、色々な文言が書かれているものが貼られてあった。「病むということ。それは人間であるということ。」私はその言葉から目が離れず、暫く眺めて、心の中で囁いていた。なぜか、唯一の癒しだった。やっと受診の番だ。E院長に今までの経緯を説明した。「S病院の医師はきちんと診てくれなかったんだね」とE院長は残念そうに語り「お母さんはおそらく薬害だね。」「薬害からパーキンソンのような症状が出る場合があるが、発症したら、中々、回復は難しい。」と説明を受けた。私は、過労から自立神経のバランスを崩していることや、その上、不眠も伝え、習慣性のない軽い薬を処方してもらうことにした。診察後、久々に精神福祉士の方と夕飯を共にしたことで、少しは気分転換にはなった。
 
 施設へ着き、母の部屋へ入ると、母は洗面所でコップを片手に持ち、口の中を水で湿らせては吐くということを繰り返していた。また、あのH病院での口渇症状が再発したのだ。母の横にはスタッフが付き添っていた。他にも入居者がいるのにも係わらず、母に常時付き添い、本当に申し訳なく思う。薬の副作用で、母は、自らコントロールできない状態であった。スタッフからの報告によると、尿の出がひどく悪く、出た尿は混濁しているとのこと。逓信病院から引き継いだ処置は、一日の水分摂取量がわずか200ccという少量だからと感じていた。疲労、絶望から苛立つ私は、言う事を聞かない母の頬を叩いたことも数度あった。帰宅後、ひとりソファーで身体を休めた私は、病み苦しんでいる母に手を挙げてしまったことを、後悔する日々が続いた。日頃から弱音は吐かない方だが、仏壇の前では父と兄にその事を詫び、よく泣き崩れた。
時々、父の無二の親友であるC先生に現状を伝え「辛いなぁ~。あんたの体が心配や。」と、C先生は電話で涙声だった。施設には、これ以上迷惑をかけられない。T病院への入院は非常に待ち遠しかった。

平成20年2月中旬。やっと入院の日が決まった。
施設には約1ヶ月はいたことになるが、実に長い時間だった。
朝9時には病院へ到着するには、施設を8時前に出なければならない。わざわざ遠くから、従姉妹は助っ人に来てくれた。いつものお気に入りのタクシーを頼んだ。母は「夕べは寝てない」と、話していたが、スタッフの報告によるとしっかり熟睡したようで、母は機嫌が良かった。タクシーの後部座席にはTVが装置され、椅子もリクライニングシートで足も伸ばせる。母と従姉妹は後部座席に乗せ、私は助手席に乗った。
車を走らせて5分位経った頃、母の様子がまたおかしくなった。1日おきのスイッチオンが入ったのだ。後でわかったことだが、パーキンソン症候群の特徴とされるスイッチオンオフ症状であった。身体中が強ばり、小刻みに震え、歯をガチガチさせていた。本人の意思とは関係なく、全身が常に動く症状である。本人もなんなのこれ・・・と言って不安がる。
もはや、窓から外の景色を観る余裕などない。早く病院に到着してほしいと祈るばかり。

 9時前、T病院へ到着した。入院手続きを終え、隣接している病棟へ向かった。そこは、I区の老人リハビリ療養センターの一部を精神科が間借りしているという場所であった。建物は古いが、明るく広くて衛生的な病棟という印象を持った。この病院は、以前、母がH病院にいた頃、私が母の代理としてセカンドオピニオンとして受診したところである。M医師にこの事を告げ、以前、受診したY医師が主治医になることが決まった。よもやY医師と再会できるとは、私は夢にも思わなかった。前にも述べたように、Y医師なら絶対に母を治してくれると直感が走ったので、今度こそは期待できると確信した。Y医師と担当看護師を交えて、今後の治療方針や入院生活の説明があった。精神科は閉鎖病棟の為、保護者選任申立書を提出しなければならず、霞ヶ関の家裁で面談をしなければならないことを伝えられた。
担当看護師から「お母様はもう2~3才の幼児です。娘さんはお母様なのです。」と、優しく笑みを浮かべながら、私に親切丁寧に説明をしてくれた。目からウロコというのはこの事だ。高齢になるとみんな子供に返っていく。私はそう頭では理解し、行動していたつもりだった。しかし、私はそれをどこかで否定し、母を成人として見て、接していた事に気付かされた。看護師のこの言葉で、私はやっと介護の方向性が見えてきた。さらに「介護者の方は、どうか無理をしないでください。私達がいますから大丈夫ですよ。」と、看護師が優しく私を気遣ってくれた。私はここに来てやっと肩の力が抜け、大きく深呼吸が出来るようになった。介護者に対して、こんな優しい言葉をかけてくれた看護師は、今までお目にかかったことがなかったからだ。この看護師の優しい言葉には、涙が出るほど嬉しかったことを今でも私は忘れない。

 翌日、早速、霞ヶ関の家裁へ出向き、保護者選任の面談を受けた。審査官は年配の女性で、お喋りが好きらしく好印象を持った。審査官には独身の75歳の姉がいて、老人性うつになり自分が引き取り、現在、同居していると、自分の身の上話しを始め出した。高層マンションに住み、お姉さんは時より窓から外を眺め「死にたい」と言うらしい。いつ飛び降りるかと思って心配だ。と審査官は、ご丁寧に話してくれた。母親も自分が看取った、と最後に締めくくった。散々、審査官の身の上話を聞いた上で、面談は終了した。会話のお付き合いと思い相槌は打ったものの、終始、私は無言だった。10分後、保護者選任と認められた書類を手渡され帰宅した。みんな同じ悩みを持っているのだと、私にとっては、実に癒された面談だった。

 T病院の精神科病棟には、脳梗塞からの精神疾患、老人性うつ病、認知症の患者が入院していた。病室は6人部屋だった。今まで個室で慣れていた母は、大部屋へ入る前に驚いたのか、身震いをしていた。正直、私も大変なところに来てしまったと思った。その部屋には重症患者が多く、母のベッドは中央で両サイドに挟まれるという、あまり良い場所とはいえなかった。母の左側の患者はベッドに拘束され「あ~あ~」と声を出し続け、一方右側の患者は、眼が異常に吊り上り、舌が飛び出し、その舌を動かしピチャピチャと妙な音を出すのだ。時より、アヒルのようなゲコゲコした声を張り上げる。私は全身に鳥肌が立ち嗚咽した。TVのあるサロンでは、小さな机が付いている椅子に拘束されている患者が数人いた。その中に、若い男性が拘束され座っている姿が目に入った。近くに、その若い男性の奥様がいた。聞くところによると、ご主人は8年前、若年性認知症を発症したと言う。既に行き場がなく、病院を転々としているとのこと。拘束されている姿は、見ている私も大変辛いが、しかし、拘束をしていないと、自分の室内履きのサンダルを口に入れ、それを噛むという行為に及んでしまうのである。病院側の処置は、適切と考えるしかない。家族としては耐えがたい事ではあるが、立場が変われば見える景色は違うと認識できる。
サロンの反対側に洗面場がある。そこに母はずっと立ち続け身体を小刻みに動かしながら涎を流し続けている様子を見たその奥様から「お母さんなの?」と、私に尋ねてきた。なんでこんなことになったのかしら・・・と、奥様は涙を流しながら私に抱きついてきた。そして、床にしゃがみ込んでしまった私を支えるかのようにして、お互い初対面にも係わらず、私達は抱き合って号泣してしまった。
 
母の病室には重症な患者が多くいた。大半が、薬の副作用から入院してきた患者だと看護師が教えてくれた。海外から見れば、日本の医療がまだ遅れている事や、一般的に患者軽視の医師が多いことを看護師は、懇々と、私に話してくれた。転院した先々で苦い体験してきた私には、看護師の言葉は、とても強く心に響いた。右隣の舌を突き出している老人も副作用だと聞いたが、そんな重い症状でありながら、頭は聡明と聞いて驚いた。週に2~3回、40歳位の大人しそうな息子さんが、母親の洗濯物を持って見舞いにきていた。来る度に、息子さんは呆然と母親のベッドの脇で、何も出来ず立ちすくんでいる光景が目に入ってきた。あまりにも変わり果てお母さんの姿に、信じられないという様子で言葉を失っていたように見えた。それを傍らで見ている私も辛かった。

 母の体重は25キロまで減少した。一見、少し小太りになったかと誤解するほど、異様に下半身が浮腫み始めた。血液検査、頭のMRI,胸のレントゲン等、様々な検査が始まった。一時、Y医師は、レビー小体型認知症を疑った。後頭部の血流が一部悪かったことや、物忘れ、幻覚、パーキンソン症状も併用している可能性もあるという理由からだ。
しかし、私の直感というのだろうか、レビー小体ではないと感じた。というのは、母は薬の影響で健忘症状が出ている訳で、以前、アルツハイマー型認知症の父を看てきた経験がある私には、一般的な認知症、あるいは、もの忘れとは違うと、漠然だが、そう感じていた。都心の某クリニックF院長からは、最後に「統合失調症」と診断を受けたことをY医師に伝えたところ、高齢になってからは、統合失調症を発症する症例は今までなかった。と説明を受けた。「誰でも高齢になると、身体だけが老いるのではなく、脳も老いていくのです。」と、Y医師から、素人にはとても理解しやすい説明を受け納得できた。

口頭の説明だけでは、多忙の医師には中々伝わらないと感じた私は、今までの経緯や薬歴を文書にまとめ、Y医師に手渡した。後日、Y医師から「薬剤性パーキンソン症候群」と、診断を下された。原因は多量に向精神薬を服用した為と説明を受け、やっと私は納得することができた。Y医師は、投薬をメネシットからネオドバストンに変更した。成分はメネシットと変わらない。又、長く続けていた薬を、突然中止するのは危険な為、今後は、服用していた薬の量を少しずつ減量していくとのこと。S病院で投与されていた薬は、すべて排除された。更に、神経内科のK医師からは、運動機能には全く問題ないと診断され、経菅食のカロリーを少しずつ上げていくことになった。1200カロリー、1500カロリー、最後は1900カロリーまで一気に上げていったのだ。これは、バリバリ働いている成人の摂取カロリーと同じである。それを一日、5回に分けて経菅食を続けた。というのは、母の血中たんぱく質が致死量に達していたからだ。非常に危険な状態であった。S病院では、パーキンソン病と診断され、アルブミン(たんぱく質)の上昇を抑えるためにダイエットカロリーの栄養だけで済ませていたことが、やっと私は理解ができた。というのは、S病院の看護師からパーキンソン病はアルブミンの摂取を控えるという説明を耳にしたからだった。また、水分量も200ccでは、やはり少なすぎたのだ。最低でも500cc摂取しなければならないと聞かされた。摂取水分量が少なく、その上、脳内のドーパミンを上げる朝夕2回のメネシットの投与である。水分を軽減された為に尿意すら催さない。薬物を排泄されない為、体内にメネシットが残り、母は常に興奮状態に陥り、奇声を上げ、一日中歩きっぱなしという異常な行動をしていたことが、やっと判明した。それだけではない。経菅食にはナトリウム(塩分)が入っていなかったのである。看護師は「何をやっていたのかしら!人間には塩も必要なのよ!」と怒りながら、経菅食の中に塩を混入していた。私には驚くことばかりが続き、今まで携わってきた病院が恐ろしくなった。
嚥下状態も決して悪くないと看護師は話てくれた。この病院では、嚥下のレントゲン撮影は1回の検査だけでは判断しないと言う。老人には、時間が必要で、根気よく患者の状態を観察しながら、4回もレントゲン検査を施すと、丁寧に説明をしてくれた。案の定、S病院の2人の医師の診断、治療は不適切だった! いや、そうではない。医療過誤! 間接的な殺人行為だ!

 一日5回の経管食は苦しかったようで、母は、口や鼻から吐き出すこともあった。体重は簡単には増えないものの、下半身だけは異様な浮腫みが続いた。
浮腫みの為、パジャマのズボンはパンパンになり、今にもはち切れそうで、膝を曲げることも出来ず、椅子に座ることすらできない状態が続いた。足首から下はまるで象の足。肌の色も赤黒く、もはや人間の足には見えなかった。
この浮腫みは、たんぱく質の低下からくる症状とのこと。今まで投薬されてきた薬を体外に排泄するまで、1ヶ月以上の時間を必要とした。禁断症状が出るのか、深夜には奇声を出す為、就寝時間は、時々、個室に入れられた。その間、母と私、二人三脚で向精神薬の離脱と闘った。
救われたのは、ここでは患者や介護者も、皆、同じ立場で地獄を味わっている。辛い気持ちが分かり合える介護者同士、皆一丸となって協力し、助け合ったことが、唯一、乗り越えられた理由だと思う。

 平成20年3月中旬。一日おきのスイッチオンオフ症状は、中々改善されなかった。オフの日は穏やかで、母は気分が良さそうであった。そういう日は、少しずつではあったが、おやつを食べることができるようになった。私が買ってきたケーキ2個はペロリとたいらげた。しかし、オンの日は、水がないとダメと言い出し、一日中、洗面場から離れない。興奮状態で顔の神経がピクピク動き、眼の瞳孔は大きくなったり小さくなったりとし、呼吸も苦しそうであった。それを傍らで見ている私は、とても恐怖を感じた。未だ興奮したように奇声を上げる。見舞いに来ていた患者の家族のひとりが「いくら親でも、ああなると嫌になるわよね。」と、私に正直な気持ちを伝えてきた。正にその通り。現実逃避したかった。

  1. 2012/07/23(月) 22:29:24|
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一か八か-電気ショック療法-

 病棟には、次から次へと新患が入院してくる。私の顔を見るなり「ママーー!」と叫ぶお婆ちゃん。中には「お母さーん」と泣き叫んでいる女性。「お願い私を助けてください」と、一日中、その言葉を発しているお婆ちゃん。誰もいないところで、丁寧にお辞儀をしている初老の女性。いきなり怒鳴りつける90歳の元気なお爺ちゃん。姿勢よく歩き物静かでとても気品のあるハンサムなお爺様。そのお爺様は、時よりテーブルに歯磨き粉を塗りたくっている。深夜は徘徊するので拘束されている。と奥様は話してくれた。その奥様に「ハンサムなご主人様ですね。」と言ったところ「でも認知症じゃねぇ~」と顔を歪め返答してきた。確かに。と私は思った。80歳半ばの老夫婦。温厚なお爺ちゃんが突然認知症になり、凶暴性が出て、子供のいないお婆ちゃんは困惑し、右往左往しながら看病していた。同室に75歳の女性が入院してきた。「ウンコ、シッコ」を一日中言い続け、おまけにナースコールを頻繁に押し続ける。シャネラーの娘さんが一日おきに病院に来ていた。私は彼女と仲良くなった。聞くところによると、X病院で心臓の手術を受け、ICUへ一ヶ月間入っていたときに、精神疾患の症状が出てきたとのこと。母は寂しさから、あのような発言を繰り返すと、娘さんは困った様子。「うるさいのよねぇ」と、娘さんは苛立った表情を浮かべ愚痴を溢していた。

病棟のトイレを使用した時だった。隣から「娘がプラチナのネックレスを盗んだ。」「娘が通帳を持っていった。」「娘がお金を持って行き、私はお金がない。」と、ひとりで呟いている老人の声が聞こえたのだ。娘さんの話によると、お母様は1年前から老人性うつを発症したと言う。退院する前日、お母様はトイレで首にタオルを括り付け自殺を図ろうとしたのだった。娘さんは苛立ち、ひどく不安を抱いていた。今度は、どこからか「税金泥棒――!」と、男性の怒鳴る声がした。「おーーーい」と大声で言い続ける老人もいた。看護師は気を利かせ「おーい中村くん」という、昔のCDを聞かせ一緒に歌っていた。あっちこっちの病室から、様々な個性ある合唱が聞こえてくる、とても賑やかな病棟であった。ここでは、こんな光景が当たり前のように日々起きているのである。
一般の総合病院とは違い、老人ということで、ここでは何でも有りだった。何をしても許されるので、ある意味、介護者側にとっては、精神的に非常に楽な病院であった。

病んで老いた人達と接してきた事は、私にとって、とても貴重な体験であった。いづれ誰でも通る道で、そして、誰でも行く道である。老いて病んだ肉親を、決して見放してはいけないことを、痛感させられた。
特に、精神疾患を家族に持った介護者は確かに大変だが、可能な限り、面会に行くことを望む次第である。精神疾患とはいえ、家族が面会にくると、眼が輝き、嬉しそうな、又、安堵した表情を浮かべるのを、私は目の当たりにしてきた。しかし、家族が帰ると、たちまち不安そうな表情になる。たとえ、病院や施設に恵まれ、どんなに良い環境にあっても、私達は決してお爺様お婆様見を見放してはいない、いつも思っています。というような安心感、心のゆとりというのは、特に高齢者においては、絶対的に重要な事なのである。

平成20年3月中旬。入院して1ヶ月が過ぎた。
区役所から認定の調査員が訪れ、以前にも増して、母の状態が悪化したことに、調査員はショックを受けていた。結果、要介護5という認定を受けた。しばらくして、Y医師から、脳への電気けいれん療法を勧められた。これは誰でも受けられる療法ではない。脳内に大きな血栓がある場合や、アルツハイマー型認知症、糖尿病、心臓病等がある場合は、対応できなのである。
幸い、母はどこにも疾患がなかった。一気に経菅食のカロリーを上げたことが成果を出し、体重も30キロを超えてきた。血中たんぱく質の数値はまだ低いが、危険な状態からは、なんとか脱出できたのだった。
電気けいれん療法は、以前、犯罪者、あるいは統合失調症の患者に対して、静かにさせるために使用されていたことがあったと聞いた事がある。当時は、麻酔を使わず脳へ電気ショックを施したらしい。そういう事もあり、未だに偏見を持っている医師が、国内では少なくないそうだ。しかし、欧米では10年以上前から、難治性うつ病の患者には、完治度が高いと報告され、今ではこの療法は主流ではある。と本で読んだ事がある。向精神薬の副作用で苦しむなら、この方が手っ取り早いという事であるらしい。
又、レビー小体型認知症やパーキンソン病にも効果があるという症例が、国内でも報告されているようだ。ここT病院では、この電気療法を試み、当時では、まだ年間64例という僅かな症例ではあったが、国内ではトップとされていた。良い報告が大半の中、まったく効果が出なかった患者もいるという。一か八か、私はこの電気療法を母に試すことにした。

 3月下旬から、電気けいれん療法がスタートされた。昨今、医療機器の性能が進化し、電気ショックを施しても身体がけいれんを起さない、無けいれん電気療法という新型のものが、病院に設備されていた。患者の左右のこめかみに電極を貼り付け、電流が順調に身体に流れているのを確認する為に、片方の足にも電極を貼り付けると、Y医師から説明を受けた。昔とは違い、今では穏やかな療法だそうだが、万が一の場合を考慮し、緊急時のオペ室も準備していた。
オペ室に入り、20分程度で切れる全身麻酔をする。100Vの電流を5秒間流す。ただそれだけである。それを1週間に2回(月、木曜日)、1クール6回で終了である。

 電気療法の初日。スイッチオンの日。オペ着を身に付けた母は、身体を強ばらせ、戦振症状が出る。何をされるのか不安そうな表情を浮かべ、ストレッチャーの上で「怖い、怖い。」と言葉を連発していた。その日は、隣のベッドの舌が飛び出しているお婆ちゃんの退院の日。やや落ち着き、他の病院へ転院することになったとのこと。お婆ちゃんは、ストレッチャーに寝ている母のほうへ向かい、心配そうな顔をしながら「がんばってね」と、母に優しく声をかけてくれた。しかし、母にとっては、恐怖でそれどころではない。返答すらできない状態。そのお婆ちゃんの優しさに触れ、私は胸が熱くなり「ありがとうお婆ちゃん。」と、声をかけお別れした。

 30分後、母はオペ室から出てきた。口には酸素吸入を付け、よく眠っていた。その日は用事があり、母の目が覚める前に病院を後にした。翌日、恐る恐る私は病院へ向かった。まだ1回目では、何も変化はないと思っていた。
相変わらず、母は洗面場にはいたが、顔の表情がなんとなくいつもと違っていた事に気付いた。いつも辛そうな表情で、眉間にシワを寄せていたのだが、その日は、そのシワがなく、スッキリとした顔をしていたように見えた。さらに、精神的にも安定していた。看護師からは「母には電気が効くのかもしれない。」と期待できる言葉を耳にした。しかし、私はずっと裏切られてきたので、正直、半信半疑だった。残念ながら、深夜、再度スイッチオンが入った。

 3日後の木曜日。2回目の電気。初回で慣れたのか、母は怖がらなかった。オペ室から戻り、目が覚めるのを待った。約1時間後、母は麻酔から目が覚めたが、残り1時間はベッドに安静にしなければならない。目が覚めた直後は、なんとなく頭が重いと母は口走った。目を覚めたのを確認して私は病院を出た。
翌日、病棟に入るなり、看護師が「お母さんが自分でお箸を持って食事をしました!」と、飛び上がるほど嬉しそうな声で私に報告してきた。私は信じられなかった。長い間、母が箸を持って普通に食事をしている姿を見ていないからだ。その時、母が目に入った。そこには元気だった頃の母がいた。まるで悪霊から解放されたような、すっきりとした、健常だった頃の母がそこにいた。母は本当に蘇えったのか!? 洗面場にはいたが、冗談を言って笑わすOT(作業療法士)の言葉に、母は口を開けて笑ったのだ。母の笑顔は何年ぶりだろう。さらに母は、病院食を食べ始めた。それも美味しいそうにすべて完食した。嬉しくてたまらなくなった私は、病院へ行く途中、デパートでカロリーの高い物を買いまくる始末。奇跡だ!本当に奇跡が起きた!天にも昇る喜びだった。

 4月に入り、3回目の電気。いつものお気に入りの場所だった洗面場から母は卒業していた。外見はやや痩せてはいるが、言動は健常に戻っていた。
いつも自分のことしか頭が回らなかった母は、周囲の患者さん達や介護者に気遣っている姿を見る。本当に信じられない。まだ信じられない気持ちだった。翌日4月8日は、母の80歳の誕生日。家の近くのホテルで、母が好物のオムライスをオーダーし、私はタクシーを飛ばし、熱々出来立てのオムライスを昼食に持参した。母は、美味しそうに夢中になって食べていた。そこに偶然、Y医師と遭遇した。Y医師は、その光景を見て、笑みを浮かべながら私に向かって、手でOKサインを示してきた。これって本当なのか?まだ疑っている私がいた。もう3回目で終了してもいいのでは?と思うほど、母は元気になった。しかしながら、私の中では、未だスイッチオンの恐怖からは逃れられないでいた。Y医師は、嬉しそうな表情を浮かべ「電気が効きました。でも6回まで叩いておきましょう。」と、私に話しかけてきた。そして、3週間でトータル6回の電気治療がすべて終了した。

 平成20年4月中旬。それからというものは、母は色々な作業療法を、自ら積極的に参加するようになった。歌、貼り絵、楽器の演奏、体操、患者同士での会話等。車椅子など使わず、私と病院の敷地内を散歩した。周囲の介護者も母の回復ぶりには、目を疑うほど驚いていた。看護師のひとりが、私に語りかけてきた。「お箸を持って食事をしたときには、泣けて泣けて仕方がなかった。」
「最初にお母さんの姿を見たとき、可哀想で切なくてたまらなかった。」と、当時の感想を、正直に話してくれた。

年間64例という、まだ僅かな症例の中で、母は劇的に電気療法が効いた。と看護師は口々に言う。担当看護師からは、「当時、お母さんはおそらくホルモンのバランスを崩したのでしょうね。」「老年にも更年期があるのですよ。症状が出たときは辛かったと思います。」と、優しく説明をしてくれた。母は精神疾患ではないと私も信じていた。母の性格上うつ病になる人ではない。にも拘わらず、なぜあんなに多くの抗うつ剤を高齢者に対して医師は処方したのか?疑問を持つ。 食欲不振、不眠を訴えると、医師はうつ病と診断するのだろうか・・・。精神疾患は目には見えない。そして、誰にでも要因はあると思う。だからこそ、投薬には、相当な注意が必要ではないだろうか。どんな薬にも必ず副作用があるのを医師は理解しているはずだ。そんなことよりも利益優先なのか?人の命を救う仕事という高い志は失われているのか?医師免許を取得した途端、努力をしなくなるのか?と私は多くの疑問を抱いた。

退院前、施設のソーシャルワーカーと看護師が、母の病状を確認する為に、2人は病院を訪ねてきた。Y医師との面談には私も同席した。看護師からは、施設では焦燥感がひどくて介護が大変だったことをY医師に伝えていた。私としては耳が痛かったが、事実だから仕方がない。Y医師は「逓信病院の投薬はすべて変更しました。」「今のところADL(日常生活)には問題はありません。」と、2人の不安を打ち消すような説明してくれた事に私は感謝した。久々に元気になった母、いや別人になった母を見て、2人の驚いた様子が印象的だった。

  1. 2012/07/23(月) 22:32:34|
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奇跡的な回復-おわりに

 平成20年5月6日、心地よい良い快晴。
GW最終日、3ケ月間お世話になったT病院を退院することになった。しかし、朝から36.9度とやや微熱があったのが懸念する。看護師に伝えると「大丈夫でしょう。」と言われ、タクシーに乗って、そのまま施設へ直行した。34キロまで体重が増え、ふっくらとした顔立ちなった母は、久々にお洒落をして外出ができ、大そう嬉しそうではあった。施設では、ソーシャルワーカーと支配人が、玄関先まで出迎えに来てくれていた。
2人から「お帰りなさい。」と言われ、「パリから戻って来ました。」と、元々ちゃめっけのある母は、冗談交じりに答えた。介護室へ入り、スタッフに元気になって退院したことを報告した。今後、私は毎日施設に通い、夕食を母と共にすることを支配人に報告した。その日の午後、母と私は、身体を休めるため、部屋で仮眠をとった。目が覚めたときだった。母の様子がおかしいのに気が付いた。全身が汗だくになっている。即、看護師を呼び、全身の汗を拭い、下着を着替えさせた。検温すると39度もの高熱。久々の外出と急激な環境の変化で疲労したのか。急いで、脇の下、太ももの付け根を冷やした。早急に、施設内の内科医に伝え、解熱剤のロキソニンを服用。母の夕食は、おかゆに変更してもらった。しかし、私の不安を払い除けるように、母は、夕食のおかゆをすべて完食した。それを見て少し安心した。翌日も微熱が出た。看護師の一人が、胃漏の所から悪臭がする。と言い出した。胃漏の造設箇所が膿んでいたのである。検査で緑膿菌が検出された。MRSAのキャリアは、傷口がどうしても膿みやすいと聞いた。
まったく、S病院からとんでもないお土産を貰ったものだ。
原因が分かり、暫く抗生剤を服用した。大事には至らず、数日後には完治した。

 元来、天真爛漫な母は、施設の生活にはすぐに溶け込んでくれた。退院早々、入居者の方々と一緒に、もんじゃ焼き食べにいったことを、余程嬉しかったのか、童心に返ったように話してくれた。隅田川の水上バスに初めて乗ったこと。梅酒を入居者やケアスタッフ、皆で作ったことや、母にとっては毎日が楽しく嬉しい日々であった。長期間、全く食事が出来なかった母と、毎晩、楽しく私と夕食を共に出来る幸せをお互い感じた。とは言っても、何時また誤嚥性肺炎にでもなったら・・・という不安は、随時、私の脳裏から離れないでいた。それほどトラウマになっていたのかもしれない。最悪な時、一度でいいから美味しい物を食べさせてあげたいと思っていたが、今では、毎日、美味しい物を食べ、30キロも体重が増え、やや肥満気味になってしまったのである。
向精神薬の副作用により筋力が衰えた母は、車イスを使用していた期間が長かった。足が弱った上、その上、急激に体重が増えたことで、今度は、膝関節症を患ってしまった。

 退院して2ヵ月。7月初夏。2ヶ月に1回、T病院に通院することになった。前にも述べたが、向精神薬の離脱には注意を要し、患者を観察していかなければならない。Y医師は、パキシルを夕食後1回4錠からスタートした。特に、老人病院では、投薬には細心の注意を図っている。老人は、成人とは違い、代謝が悪くなり、体格、体重も変化をする。投薬の用量、用法には十分に注意をしなければ、私の母のように、副作用から死に直結するケースは少なくない。手前味噌ではあるが、どんなに遠い病院でも、私は一日も休まず母を看てきた。同時に、医療従事者の患者への対応も観察できた。そんな経験から、私は自らの判断を信じることにした。都心の某クリニックからスタートして、S県のR病院、H病院、S病院で携った医師の診断、治療を鵜呑みにしていたら、母は、すでにこの世に存在していなかったことは言うまでもない。途中、疲労から体調を崩し、何度か挫折はしたが、最後の最後まで諦めなくて本当に良かったと思う。我ながら良くがんばったと自負している。

更に、Y医師から胃漏のチューブを取り外してよい。と嬉しい診断をもらった。チューブ交換で通院していた施設の近くにあるクリニックで取り外すことにした。万が一のことを考え、胃漏を造設したS病院にもソーシャルが報告をしてくれた。すでに、T医師は退職し、O医師に伝えたと連絡を受けた。胃漏を取り外してからは、ますます母は元気になっていった。
夏には花火大会や夏祭りを楽しんだ。日の長い夕方には、毎日、散歩した。
電気療法は、人によっては半年で再発すると聞いていたが、幸い、母の体調はまったく問題なく半年を経過した。

10月、区役所から半年に1回の認定調査員が施設を訪れた。調査員は、元気で別人になった母を見て驚愕していた。「よくここまで回復しましたね。」と、声を詰まらせ、感激したのか目にはうっすらと涙をためていた。後日、要支援5から、一気に要支援2という認定結果の用紙が届けられた。区役所介護課から、こんな事は初めてと報告を受けた。このときには、パキシルの投与は3錠に減薬された。

施設で平成20年の師走を迎えることが出来た。施設内は、大きなクリスマスツリーが飾られ、年の瀬の慌ただしさを感じてきた。大晦日からお正月は、私は施設のゲストルームに宿泊をして、母と新年を迎えることができた。
年が明けた平成21年、1月1日。施設で母とお節料理を一緒に食べた。昨年の寂しい、悲しい、辛いお正月とは違い、それこそ天と地の差。施設近くの神社に母を伴い参拝した。元気になり、一緒にお正月を迎えることが出来たことを感謝した。

 平成22年の春。退院して2年間にもなるが、幸い何事もなく時が過ぎた。
既に、パキシルの処方はなくなり、服用しているのは消化剤程度のもの。
要支援1という認定を受け、母は3月に介護室から健常者住居に移ることになった。一般的には、健常棟から介護室へ移るというのが普通だが、母はその逆を行ったことになる。施設側としても、初めての経験。
ある意味、母は介護室の方々に、希望を持たせたのかもしれない。

 平成24年。退院して、何事もなく4年が過ぎた。
母は84歳になった。昨年末、白内障のオペも順調に終わり、目がよく見えるようになったと大喜び。施設では、フラダンス、カラオケ、愛唱歌、写経を楽しみ、そして、多くのお友達ができたことが、最も嬉しいようだ。
施設を出入りしてきた私が気付いた事だが、入居者全てが「戦争体験者」という共通の話題があることは、非常に入居者にとっては心強いことだと感じた。
高齢になってから、皆が初対面でありながらも、全員が同じ話題を共有できるというのは凄いことではないだろうか。と感想を持った。
果たして私が施設入る頃には、どんな話題を共有しているのであろうか?

今、母の幸せな姿を見ていることが、私は幸せであり、なによりも天国の父と兄が安心したことだろう。ここまで頑張れたのも、きっと父と兄が私の背後で支えてくれていたのだろうと深く感謝している。


終わりに。

母の介護記録を綴るに当たり、正直、ひどく戸惑いがありました。介護は決してきれい事ではなく、重く暗い内容です。又、恥部を赤裸々に伝えることに躊躇し悩みました。正確に事実を伝えるということは、一方では、医師や病院叩きをすることにもなります。また、苦い過去を思い出しながら活字にするには、相当な労力を費やし、精神的にも苦痛を伴うことになります。しかしながら、今回、医療従事者の患者軽視から不当な診断を受け、不適切な治療により母は要介護5という最悪なケースに至り、危うく死に直結するところでした。それを見てきた周囲の方々から、是非、事例を書いて社会に発信してほしいと強く要望され、私は自分を奮い立たせ勇気を持って書くことにしました。

1億総うつ病と言っても過言ではない昨今。至る所にメンタルクリニックを目にします。又、一般内科、小児科、精神科、心療内科、と何でも屋のように書かれている看板も多くあります。精神科病院の出入りをして来た私は、向精神薬を多量に処方され、多くの若者が廃人になっている有様を見てきました。「あなたは本当にうつ病なのですか?」「薬を服用して改善しましたか?」「薬の副作用からうつ気分になっていませんか?」と私は尋ねたい。毎日、母の状態を看てきた私は、素人ながらも薬の多さに疑問を感じ、にも拘わらず、全く回復の兆候すら見えない、そうありながらも薬をどんどん増やしていく医師達に、心底、恐怖を感じました。

毎日、異様と思える事件が多い中、その裏には、事件に関与した人は、皆、向精神薬を服用しているのでは?と疑ったりもします。
向精神薬の副作用の怖さを知らない質の低い医師が多いというか、安直に薬を処方する医師は非常に問題ではないでしょうか。また、恐ろしい事に、医師免許を取得した者は、皆、精神科医を名乗れるとのこと。
事実、パーキンソン病と似て非なる薬剤性パーキンソン症候群を知らなかった医師が、残念ながら大半でした。
医師を信用し、病を治そうとしている患者に対して、医師はきちんと投薬の説明をすべきではないでしょうか。
また、患者自身も自分に処方された薬をよく理解し、自分に合わない薬があれば医師に詳しく伝えることが、お互いの信頼関係を築くためにも重要だと私は考えます。

ますます高齢化問題が悪化しつつある今、「老人への投薬の見直し・あり方」「老人の心と身体を理解する」というような指導を希望するのと同時に、将来、医師として活躍する研修医の方々には、患者への接し方のノウハウを、しっかりと教育をしていくべきであると強く考えます。若い医師から心ない言葉を浴びせられてきた私達は、今尚、言葉の暴力に傷ついています。

政治、経済、教育、医療、制度等、全てが腐敗状態に陥り、懸念を抱かざる得ない現代社会。そんな状況の中、あってはならない医療過誤、精神医療被害、高齢者医療に関して、全国にシンポジウムを開くなどして、健全且つ適切な日本の医療を目指すためにも、厚生労働省や医師会・自治体に対して、最も力を注いでいただきたいと切に願う次第でございます。

  1. 2012/07/23(月) 22:35:03|
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あるPSW(精神保健福祉士)の見た真実

私は、地域のソーシャルワーカー(精神保健福祉士)です。某相談機関で、精神疾患や精神障害を抱える方たちの、生活支援をしています。

もともとは新卒で精神科病院のワーカーをしていましたが、近年の患者層多様化や、治療への疑問と、患者だけでなくあらゆる人が医療に頼りすぎている現状を、自分が地域へ行くことで少しでも何とかしたいと思い、転職しました。

地域に来て一番感じることは、「地域コミュニティの崩壊、機能停止」です。お隣さん、ご近所、自治会、こども会、成年部会、民生委員、世話焼きのおばさんなど、私が子供の頃は、良くも悪くもいろいろなコミュニティがあり、何となく変わっている人や困った人も、地域が当たり前のように(やむを得ずだったのかな?)受け入れ、共存していました。

私が田舎の出身だからかもしれません。父親が床屋で、とにかく多様なお客さんを相手に、話したり、励ましたり、正面切って怒ったりしているのを、見て育ったからそう感じるだけなのかもしれません。

しかし今、私が担当する地域で暮らす、精神科に通院している人たちは、みんな孤独で余裕がなく、自分のことで精一杯。何かあるとすぐ不安になったり何かのせいにしたり、職員に何とかしてもらおうとしたり、自己防衛に必死です。現実を直視できずODやリストカットを繰り返す人もいます。

医療職や福祉職ではない、ちょっとした相談ができる人や話し相手は少なく、孤独な暮らしをしています。老若男女問わずです。むしろ、そういう「当たり前の人間関係」を、病気や障害という理由で、あえて避けているようにも見えます。職員ならば、理解してくれるだろう、むしろ理解すべきだと。これまでの人間関係で、きっとたくさん傷つき、それを自分で振り返ることもできず、支えてくれる人もおらず、全てが怖くなっているのだと思います。

そして、国はその崩壊したコミュニティを再生させる動きは全くせず、むしろそれを福祉の私たちに「サービスとして提供するように」と求めて来ていると感じます。居場所も、話し相手も、相談も、就労も。悪法と言われた障害者自立支援法が、大いにそれを表しています。障害者は、福祉のサービスを使って、働けるようになりなさい。職員は、働けるように指導しなさい、居場所を作りなさい、彼らを福祉で抱えなさい。という意図を感じます。

それって、本当に幸せでしょうか。
私の事業所には日々、何てことない話相手欲しさの電話が異様に多く、私たちは、その中に紛れる深刻な相談を取り逃さないよう必死です。

そして、孤独な人たちは、駆け込んだ精神科での過剰な診断や投薬に何年も何十年も翻弄され、依存させられ、社会参加はできない、身体を壊す、さらに孤立していく。そして、最悪の事態につながる。

私は、関わっていた方の突然死を、何度も体験しました。自殺ではありません。ある日突然、自宅で倒れているのです。第一発見者になったこともあります。

彼らは、何十年も大量に精神薬を飲み、社会参加できず孤立して、医療、福祉関係者とだけのつきあいになっていました。長年の服薬による身体への負担、そして孤独と孤立。

くせはあるけど、愛すべきキャラクターの方ばかりです。

彼らはきっと、こんな死に方を望んではいなかった。当たり前のように多剤大量処方をしてきた精神科医療の、それに従い彼らを抱え込んできた福祉の、そして多くの問題を見ないふりし続けた社会の、犠牲になったのだと思います。

若い人たちや子ども、そして高齢者までもが、メンタルの不調を訴えて精神科や心療内科へ簡単に行く現状。

この人たちも、突然死や自殺のリスクを抱えているのです。いつ亡くなってもおかしくない。

このままでは、この国は滅びてしまう。そう思い、情報をたぐり寄せ、中川さんや内海先生にたどり着きました。

同業者や関係者の中で、同じ想いの仲間に、未だ出会えていません。みんなに言っても苦笑いだし、声をあげることには及び腰です。私は、こうやって発信していくことで、さらに、業界からは孤立していくかもしれません。

でも。目の前の相談者と、とことん向き合う日々が、やりきれない自分の感情が、全てを物語っており、目を背けてはならないと思いました。

病気なんだから、障害者なんだから、援助してよ。何とかしてよ。そうやって不器用に、でも必死で来る相談者たちが後を絶ちません。

これは、そうやって依存してくる本人の自己責任だけの問題でしょうか。

違う。

これは、たくさんの問題が複雑に絡み合った、完全な社会問題です。

病気じゃない人まで、過剰な医療で病気や障害者にさせられている。
そしてそうなってしまうと、もう抜けられない。
薬を減らしたり、やめるための医療や施設はない。

この人、薬全部やめてみたらどうなるかな。もっと楽に生活できるんじゃないかな。
そう思っても、やってみましょうと言う精神科医はいない。試すことすら許されない。

だったら私たち地域にもっとお金をつけてくれれば、24時間体制で訪問に行き、減薬、断薬の援助ができるのに。

福祉に投じる予算はケチっているくせに、精神科医療の失敗が、社会の問題が、当たり前のように、最後の受け皿として、福祉に丸投げされている。

福祉の現場は、それに気づかずに、いや、気づきながらもどうすることもできず、どんどん疲弊している。

疲弊した現場は、自分たちが扱いづらい利用者を、自然と排除する仕組みを作っていく。

福祉に排除された人たちは、社会から完全に排除され、さらに孤立していく。

社会問題を、福祉が尻拭いするのはおかしい。

病気や障害があってもなくても、安心して人とつながれる、誰もが孤独にならない、孤立しない社会。もっとシンプルに、まっすぐに、自分も周りも思いやることができる社会へ。そこに、精神科医療が入る隙はない。

具体的にできることを、あきらめずにやっていきたいです。

まずは、薬の知識をもっと深める。精神科医療で当たり前とされている治療や投薬を疑う。真実とちゃんと向き合うこと。それを多くの人へ、発信すること。

理想だとか抽象的だとか言われても構いません。私はソーシャルワーカーであり、地域で生活する全ての人の、「権利擁護」が使命です。

組織に属している関係上、この場で実名は出せませんが、一緒に活動してくれる関係者のみなさまを、心から待っています。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
  1. 2012/08/08(水) 23:38:28|
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雅子様への手紙

親愛なる 雅子様

 わたくしのような、ごく一般人が、お手紙をお書きする事がなんの意味があろうか・・と思いつつ、しかし、しばしこの紙切れに目を通していただけることを頭に思い描きながら、書かせていただきます。読み終わった頃に、私の言わんとする所が分かっていただけたら幸いです。

 私は、小4と小5の息子の母親で、離婚歴があります。住まいはとある九州の田舎町、田園風景のなか暮らしています。以前は居住地役場で職員として働いていましたが、ある病に9年前からかかり、今年の3月末に退職いたしました。病のきっかけは、それは約9年前に遡ります。離婚、借金、夜は乳飲み子におっぱいを与えながらの勤務、職場でのパワハラ・・・あげればきりがない様々な苦悩の中にいて、当然の成り行きか体調を崩しました。全身検査するも原因がわからず、主治医は自律神経失調症と診断、心療内科への受診を薦めました。はじめは、少しぐっすりと眠られたらそれでよかったので、処方された睡眠薬を服用しましたが、その頃出現していた自律神経失調症状が眠剤で少し眠れた位ではどうにも回復できず、精神科医は変薬、増薬を薦めました。その頃はまだばりばり働いていましたので、何とか症状を抑えながらでも勤務できる道をと、医師に言われるがまま服薬をしました。しかし、体重の急激な増減、さらなる症状の悪化と、ころころと石が坂道をころげ落ちていくかのように心身両面コントロールがきかなくなりました。症状の悪化、薬の多剤処方、さらなる症状に対する増薬・・・その流れが数年続き、とうとうこのての薬剤については最も出てはならない副作用、遅発性ジスキネジアを煩うことになりました。それが今から約5年前のことです。つまり、服薬開始から4年半くらい経過していました。そのような状況で、何が当時出来たか・・・今となっては答えは簡単でも、当時はとにかく日々必死だったと言うことだけは確かでした。ここまで書いてきて、私が何を雅子様にお伝えしたいのかきっとまだわかっていただけないと思いますが、もうしばらく発症当時の私の状況を遡って詳しく書かせていただきます。

 私は年子で、二人の息子を帝王切開で出産しました。傷口もまだ生々しい時期に仕事に復帰し、ほとんど夜も育児で眠れない状態で仕事をしましたので、症状が出始めた頃は眠れず、こどもの声も昼夜聞こえるようで、とにかく眠りたかったのです。当時の主治医に処方された安定剤は眠剤の役目もあるもので、服薬した瞬間はしばらく落ちついた精神状態で数時間は記憶なく眠れたようでした。しかし、日常が何ら変わらない環境の中、服薬量は増えていき、常に口の中に入れておかなければならない状況で仕事をしていました。

 しかし、直ぐに睡眠もほとんどとれなくなり、主治医は抗うつ薬を薦めました。私は、ただただ何とか生活を維持するために、薦められるがまま服薬しました。それからが地獄の始まり、症状は服薬動機がなんだったかわからなくなるほど、ものすごい副作用に襲われることになり、体重がみるみる落ちていきました。しかし、考えていることがうまくまとまらない症状も強まっていたことで、様々なストレスを考えないような思考回路になっていたことが幸いして、呪文のように何とかなると言い聞かせる事で仕事を続けられていました。それでも体調が悪いときは、休職願を出し、休職する事でつなげていく日々となり・・・。そうしていく生活も、ある状況で見直さざるを得なくなりました。最も恐れていた遅発性ジスキネジア症状の出現です。

 これを当時医師は認めず、さらなる投薬をと言われましたが、これでは薬で私の人生はどうなるのかという不安がやっとの所よぎり、必死にネットや書物を読みあさり、この場合現在の医療では治療方法が確立されておらず、減断薬して様子をみるとあり、そのサポートをしてもらえる所を見つけはしたものの見つからず、自力で減薬していくことにしました。その際参考にしたのは、外国の精神薬関連の情報をネットで検索し、その中で見つけた論文を元に減薬計画を立て、実行しました。その間、様々な離脱症状を経験、副作用と合わさって、それは筆舌に尽くし難いものでした。もはや人間ではなかったと思います。その頃子育ては両親にお願いせざるを得ない状況で、ほとんどを休職して症状を乗り越える時間に充てざるを得なくなりました。その頃必死に精神薬について調べていくうちに、私の体に起こっていることは、私の病からと言うよりも、精神薬の性質に由来するものが多いことを知りました。薬の耐性により増薬が必要であること、依存性があること、離脱症状が人によっては出現すること、これらの性質により断薬完治は難しいこと・・・それまで治ると信じてきた事が、一気に死へ近づいている状況であると知り、体ががくがくと震えるほどの衝撃を受けたことを今でも覚えています。

 私が経験している遅発性ジスキネジアは、非可逆性の症状で西洋医学ではもう完治は望めないとされているものです。私は精神科受診当初、治りたいために次々の増薬を受け入れ、治りたいがために医師の言葉を信じてまじめに服用しました。にもかかわらず、最後は障害者になっていたのです。

 生きる希望を無くし、何度か自殺未遂を経験したとき、東洋医学に出会いました。心身両面からのケア、手当、そして魂のレベルから症状をとらえるその世界観、奥深さに私はいやされ、回復し、今ようやく簡単な仕事が出来るまでに回復しています。西洋薬は決して万能ではなく、時に使い方を間違えたらとんでもない状況を生むことを経験してから、特に精神科の薬に関しては、これは決して治療薬では無く、魂の叫びにふたをするだけだと確信しました。しかし、もちろん西洋薬を全否定しているわけではありません。

 雅子様が、薬物治療で完治を目指されていることは情報番組から知っています。しかし、私は、精神の病は薬などによってではなく、他の手だてが必要だと経験から知っています。心は、心によってしか癒されず、身体の回復は、心の回復によってのみ治癒に導かれるものであるのだと。であれば、雅子様は、どこに心の傷があるのか、どこに原因がありそれを取り除く必要があるのか、もしも実際に取り除く事が不可能なら、どのような心の癒やしがあればいいのか、そこを丁寧に、しかし深く考えていく必要があると思います。

 雅子様のお立場を思うと、自分は代わることは出来ずとも、同じ精神薬を服薬してきた私としては、とても胸が痛く苦しい状況であることは容易に想像できます。そして、その状況で私のように自己責任で断薬を安易におすすめすることも出来ません。しかし、今のままでは何らかの形で大幅に見直さなければならない状況がくることは明らかだと思うのです。ある医師は、私にオフレコと言いながら、精神薬が身体に合わなくてよかった、かえって何も無いなら一生飲む羽目になったでしょうと言いました。しばらくして、東洋医学での完治を目指すことを、理解しサポートいただける医師にも出会いました。そして実際東洋医学の治療を受けることで不治と言われた症状も回復しつつある現実に行きついた今では、私はなぜ回復してきたのかと考えると、自分がその道を望んだ瞬間からその道がご縁という形でやってきたということなのだと分かります。私が望まなければ、今世をもう生きていなかったかもしれないし、不治の病を抱え、絶望の中にいたかもしれない。しかし、私の魂はまだまだに生きたくて、こども達の笑顔といたくて、そして出逢いを引き寄せたのだと思います。人生は、自分次第でいかようにも変わるし、変えることが出来ます。逆に言えば、自分しか変えられません。必ず最善の方法が、求めたときから向こうからやってきます。

 どうか、雅子様とこの手紙とがご縁があり、雅子様の病が癒されるきっかけとなりますように。

40代主婦
  1. 2012/11/16(金) 00:40:30|
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生後4か月の子を残して亡くなった娘さんのメモ

3月6日に出産し、4月22日の夜中の授乳中に家族が見たテレビの殺人シーンが頭に残り眼をつぶるとそれが頭に浮かんで、怖くて夜も昼も眠れなくなってしまいました。寝ても3時間ほどで眼が覚めてしまい、眼が覚めた時、ニュースで見た犯人の顔が眼に浮かんだりして、本物のニュース番組まで怖くて見られなくなってしまいました。

その内、赤い色を見ると血を想像してしまったり、刃物が怖くなったりして、外で人を見ると犯人に見えてしまったり、外に出るのも怖くなってしまいました。過去に見た恐い物を現実とを絡めてしまったのでしょうか。家にいて物音がしても、怖いような気がして、ドキドキして頭が疲れてしまい、眼をつぶって寝るのも労力を使い、睡眠薬がないと眠れなくなってしまいました、

訪問の保健師に話したら、心療内科を探してくれたので、5月下旬、池袋の心療内科に行ったが、カウンセリングは余りしてくれず、抗うつ薬を処方され、1週間飲んだが午前中ふらついたりしたので、話をするとすぐ薬を変えられ、飲み始めて1週間ほどでイライラ感が強くなり、攻撃的になり、吐き気がしたので止めてしまいました。

いつも頭に怖い事が強迫観念のよう居ついているような感じで、常にドキドキしていて、現実とTVで見た物を混同してしまったと思うのですが、2か月程頑張ってみたのですが、なによりも眠くならない、眠れない、つねに頭痛と息苦しさは耐え難く記憶力もなくなり、ちょっとの事も覚えられなくなりました。

近くの心療内科に行って、薬を貰ったのですが、やはりカウンセリングは余りなく薬で少し寝たと思っても、最初だけでやはり眠れず、自分の心と身体が自分の物ではないみたいです。頭痛は日々重くなり物音が凄く響きます。光がまぶしくて眼が疲れるし、起きているのもつらいです。何をするにも身体が動かないで、1日をこなすのもやっとです。

毎日ほとんど眠れないからか、自分の頭と身体が自分のものではないみたいです。頭痛と動悸は日々重くなり、物音がとても頭に響きます。眼を開けてるのも疲れるし起きているのも辛い事が多くなってきました。横になっても動悸がする、一日をこなすのもやっとです。感情が日々無くなり、喜怒哀楽がなくなって、不思議です。

シャワー、歯磨き、洗顔すらなかなか出来ません。悪循環におちいり、自分を追い込み自分自身を疲れさせ、自分で自分の事を、どんどん鬱状態に追い込んできたのだと思います。そしてみんなに多大な迷惑をかけ続けていて最低です。私は進歩もしない人間です。済みませんでした。

感情も日々無くなってきて、今まで37年、こんな風になったことが無かったので、こんな人間だと分かって居たら○君にも、○○にも取り返しがつかない思いをさせずに済んだのだと思い、それよりここまで心を砕いて私を育ててくれた母に、申し訳ないと思います。ママ、こんな最低な娘を許さないで下さい。

今回の事は本当に自分ではどうしようもできなかったよ。私はストレスは解消して、強い人間だったと思うのですが、そうでなかったんだね。ごめんなさい、ごめんなさい。私はママの子で良かったよ。ほんとうに、なのにごめんね。

ごめんなさい。私は弱い人間でした。大切な人たちの為にも何とか頑張りたいと思って耐えていたのですが無理でした。育児だけでも大変なのに、こんな状態の上で、それをこなすのは私には無理でした。無責任過ぎますが、私には耐えられませんでした。

生きてても迷惑をかける、死んでも迷惑をかける、私のせいで皆を不幸にしてしまいごめんなさい。本当に弱い、身勝手な人間でごめんなさい。

ママ、本当にどれだけ貴女が心を砕いて私を育ててくれたか、それに報いる事が出来ずに済みません。迷惑と言う言葉をはるかに超えた裏切りです。本当に感謝しています。なのに、こんな事をしてしまうなんて、最低の娘です。弱い子でごめんなさい。最高のお母さんありがとう。

睡眠剤も効かなくなってきた。手足がしびれている。私はどうしたら良いのだろう。頭も身体も思うように働かない。今朝も酷い状況だ。もう頑張れない。○○が「お母さーん」って呼んでくれる日が待ち遠しい。可愛い○○の成長を見守りたい。こんなに苦しいのは生まれて初めてだ。

  1. 2012/11/21(水) 02:44:27|
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裁判の行方

(転載禁止です。)

裁判の行方          
№1               

母が亡くなったのは、平成22年10月4日の事でした。
この27日前に精神科の閉鎖病棟に入院しましたが、薬の副作用で帰らぬ人となってしまいました。
67歳でした。                                         
亡くなる前日の夕方から熱が出ていると病院から電話がありましたが、悪化しているにもかかわらず転院措置もされず、翌朝、院長から「心肺停止したので、病院に来てほしい。」と言われ、何があったのか頭が真っ白になったまま病院に向かいました。
部屋の傍らには痰の吸引器と、酸素ボンベが置いてありました。
母の亡き骸は全身がむくんでおり、黄疸も見るに明らかでした。
特に尿は17時間も出ていなかった為、お腹はパンパンに大きくなっていました。
 私が裁判をしようと決断したのが、これまでの病院での様子,目の前にいる母の亡き骸を見た瞬間でした。
葬儀が終わった次の日に、院長に面会し(会話はICレコーダーで録音)、カルテ・検査結果を持ち帰り、弁護士の先生にそれを見せました。
カルテはかなり適当にしか書かれておらず、これからは詳細が分からず調べ進めるのに苦労しました。

母の「うつ」は15年前から、年に決まって2回程、梅雨の時期と年末年始あたりに症状が出ていました。
常に薬を飲んでいた訳ではなく、「うつ」の症状が出たら心療内科に行き薬を処方してもらっていました。
責任感が強く、きれい好き、誰とでもすぐ打ち解け、旅行が大好きだった母。
平成22年9月の始めに、夜中に家を飛び出したため、みんなで探し回りました。
その次の日には包丁を持ち出し、父に「殺して!」と号泣しました。
相当つらかったと思います。
今まで2回希死念慮はありましたが、2週間位かけて回復していました。
今回は目が離せなく、危険と思われる物はすべて隠したりもしました。
 通っていた心療内科の医師に相談し、どうしようかと迷ったのですが、危険も差し迫っている事と父の体力・精神力も限界に近くなっている事も考え、母を近くの入院施設のある病院に入院させる事にしました。
その入院した病院こそが今回の裁判で争った病院なのです。
                                    
№2

母は「うつ」になって15年、うつでの入院は初めてでした。
実は、数年前に年に1度受けていた市の健康診断で「不整脈」があることを指摘され、循環器科にも通うようになりました。
 入院する際に、「不整脈」「心臓肥大」だという事も、薬の事も(飲んでいた薬は全部渡し説明)、院長には伝えていました。
ちなみに、「不整脈」も「心臓肥大」も、日常生活には何ら支障のない程度でした。

入院後の経過

9月7日、入院後の処方 (1日あたり・循環器科の薬含む)

デプロメール 50㎎(3T)  ラックB微粒 3g(3T)  ルジオミール 25㎎(4T)

デパス0.5㎎ (1T)  レンドルミン錠 (1T)  ロヒプノール 1㎎(1T)             
ワーファリン (1T)  ベルベッサーR100 (1T)  ディオバン40㎎ (1T)        
入院後に、胸部レントゲン,心電図,血液・尿検査をしているが、亡くなるまで検査はこの1回のみとなっている。

9月11日、ルジオミール25㎎ を1錠追加して1日125㎎に増量後、症状がいくらか緩和したそう。                                              
9月24日、幻視や幻聴があり、フラフラ感があって、夜間トイレの転倒防止のため、ロヒプノール1㎎を抜去。                               
今までどんなに悪化した時でも幻視や幻聴の症状は一度もありませんでした。     

9月29日、妄想言動が出たので、リスパダール液2g を投与。この頃から自立歩行困難となりました。

№3

9月30日、微熱,四肢浮腫,咳嗽あり。言語不明瞭で呂律がまわらず。                  
10月1日、面会にいくたびに悪化しているのに、説明が全くないことから、院長に「薬を減らしてほしい。」と頼みに行きました。                                  
ルジオミール 25㎎ 3T  デプロメール 50㎎ 2T の抜去

呼吸機能 SPO₂84% (SPO₂は基準値が94~97%とされている。90%未満は急性呼吸不全の可能性) 酸素投与されているのにもかかわらず下がり続けました。                                       
10月2日、熱は36℃台に下がる。状態は安定していたという。                     
この日にも面会に行ったが、母は車イスに乗っていた。(首や手も自分で動かせない状態になっていた)                                  
夜トイレに行こうとしたのか、この時にベッドから落ちて頭を打った状態で発見され、チアノーゼが出て危険だったが、何とか回復した。この事は私達家族には知らされず、この裁判の最中に看護記録を見て初めて知りました。                  

10月3日、再び熱が38℃台に上がる。以後、夕方に呼吸苦、熱は36℃台に急降下。        
内服の精神薬を全部抜去。点滴のみ。                              
夜に、状態が悪化したら、救急病院に転院させるかもしれないと病院より電話が入った。

この日は一睡もせず連絡が入らない事を祈っていました。                     
院長は近くの自宅に帰り、朝まで一度も病院に行かなかったそう。                  
10月4日、朝食後(流動食のようなものを介助され全量摂取したそう。これ自体もずっと疑問に残る事だった)、8時40分、突然に顔面発汗し、激しい呼吸苦の後、バイタル不能、心肺停止。
8時50分死亡。
黄疸,チアノーゼ,浮腫を確認しました。尿は17時間出ていなかったそうです。                                        
№4

裁判では、医師のカルテより看護師が書いた看護記録が大いに役に立ちました。                      
院長のカルテに関しては、裁判官より、「記述が少ないですね。これだけですか?」と院長に指摘がありました。          
死亡診断書の事では、死亡原因の箇所に、「【急性循環器不全】と書いたが、正確には【心原性ショック】と書くべきでした。」とあとになって言い、あくまで薬による副作用が原因と認めようとしませんでした。
「薬の注意文書に従っていたら、風邪薬さえ処方出来ないから、注意文書は参考にならない。」とまでありました。 
そして、精神科医師として20年にわたる臨床医としての経験と実績に基づき処方された適切な処方内容であって医師の責任は全く存在しないと.....。                   
 私達原告側に対して、「前の病院で約8年間にわたって治療を受けてきた患者が治療
中に死亡しなかった事の説明がつかないのではないかと考えられる。」・・・・・。                       
こんなやりとりが準備書面の中で続いて、心が折れそうになった事が何度もありました。                                        
もしかしたらこのまま負けてしまうのではないか・・・と不安になった事も度々ありました。      
全国で同じように裁判をしている人達がいる,被害に苦しんでいる人達がたくさんいる、
この事を心に刻んできたからこそ、最後まで闘ってこれたんだと思います。                       
途中で何度も被告側から和解の提案がありましたが、断ってきました。                 
そして、審理入りで被告(院長)が証言台に立って、各々の弁護士から証言を求められていた場面を、私は一生忘れることはないでしょう。
2時間の中で知らなかった事実や、被告のうろたえる様子、口ごもる場面、顔色が変わる質問、今までの比にならないくらい濃縮した時間でした。                             
 結局、母の死亡時間には被告は立会いをしておらず、正確な死亡時間はわからないままです。
                                        
裁判が終わったあとは、しばらく自分を責める日々が続きました。                       
やはり母は戻ってこないからです。                                
入院させてしまった事,早い段階で院長に談判すればよかった事,もっと早く転院させればよかった事・・・・・。
いまだに、いつもの様子と違う、ボーッとしている母の「入院は嫌だなぁ。帰ってこれるかな?」「もうすぐ家に帰れるかなぁ。」こんな言葉が脳裏に焼きついて離れません。       
今、被害にあわれている方とそのご家族,そして通院しながら仕事を続けている方と関わっている方々には、こんな後悔をしてほしくありません。            

裁判の行方ですが、結局のところ和解をしました。
和解といっても「勝利的和解」です。                                     
裁判長から、完全に被告のほうに責任があるという証明となる書をいただきました。      
私の大事な勝利のしるしです。                                      
 少しずつですが、精神科,心療内科の処方も変わってきているようですが、まだまだ問題は山積みです。
この文章が、少しでも問題を抱えている人達の足元を照らせる事を願ってやみません。

今回、協力いただいた方々、特に精神医療被害連絡会に資料の提供、ならびに相談にのっていただきました事を感謝いたします。

九州 Y.F
  1. 2013/01/02(水) 15:18:13|
  2. 投稿-裁判の行方
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PSWとして目にしたこと


PSWとして目にしたこと

私は兵庫県在住の45歳の女性です。
この歳で3年間大学の通信課程で福祉について学び、昨年PSW資格を、今年の春社会福祉士の資格を取りました。
現場での実務経験はまだ本当に少なく、実習で精神のB型作業所、系列の地域活動支援センターで半年勤務、精神のA型作業所で2ヶ月勤務といったところです。

短い期間、転々としてきたのですが、そこで仕事が続かなかったのには深い訳があります。
それは、精神障害者当事者に対する福祉現場の職員対応のお粗末さが表向きの理由です。
しかしながら、もう一つの理由として、当事者彼ら一人一人にじっくり向き合う必要性があるにも関わらず、
人間として扱うことすら十分整っていない環境であり、当事者の皆さんがそのことに傷ついていること、
社会への自立もままならない中、福祉を頼って自立へかすかな希望を持ちながらかろうじてやってきている場で、
十分な扱いも受けられず苦しみ続けている姿を見て、福祉という大きな組織の中で私自身が資格を持ちながらできることは限られており、
現在の体制では、彼らの力になることは無理だと思ったのです。

掲示版にお書きしたように、私は今かつて当たり前のように一人の人間として普通に生活していた人が、
精神科医にかかり、そこで虫けらのように扱われ、平気で騙されたのを正そうとして逆に警察に通報され、医療保護入院で強制的に病院にぶちこまれ、
閉鎖病棟でひどい拷問虐待を受け、さらに大量の薬剤を投与され、薬漬けにされながら死にかけながら作業所にやってきて、
自分が必死で書いてきた体験談を私に読ませたことでこの問題の深刻さについて知りました。

職員と利用者という立場の間柄ではなかなか見えて来ないことも多く、さらにこの問題について考えたいと思い、
公的立場である資格を利用した専門職の立場をはずれ、継続してこの利用者さんと友人としてつながってこの1年余り見てきました。
正直言って、公的立場をはずれなければこの問題ははっきり見えてくるものではないと思います。
それは資格に基づく規定としてもはっきりと職員と利用者という立場を超えてはならないと言うことが明記されているわけですし、
やはり一人の利用者の事例にとらわれて、そのことだけに支援をするということは公的立場では困難なことだからです。
しかしながら、彼の事例はあまりにもひどく、決して見過ごしにできるものではないと思いました。
彼の事例こそ、今の社会がひた隠しにしている真に迫る精神障害者が置かれている実情なのだと思ったのです。

私は彼が体験したことのほとんど何も知らないところで同じだけの年数を生きてきました。
目の前で語られることが、あまりにも理解に苦しみ、私自身が当たり前だと思っていることも当たり前でない、
本当に人間として生きることも許されてこなかった人生であり、私自身もさらにその一つ一つが理解できず苦しみ続けた1年余りでした。
泣きながら、怒りをぶつけながら、何度大げんかして、もうこんなことしんどいからやめてやろうと思ったか知れません。
それでも彼にとっては、今唯一社会自立に向けて自信を取り戻しつつある希望の光が私だというのです。
何十年も死んだような人生を送ってきて、大量の薬に左右されて、やがて自分も死ぬのを待つだけの日々を送り続けて、
やっと長いトンネルから抜け出す方法を見つけ出してきているといったところでしょうか。

一進一退は繰り返しているものの、1年前に出会った時から比べると症状も随分治まり、
落ち込む状態に陥っても、自力で立ち上がるのに時間がかからなくなってきていること、
しんどくて冬の間は特に行くこともままならなかった作業所へも、最近では随分通える日数も頻繁になり、長い時間働くことも可能になってきました。
出かけても疲れ方が以前ほど残らなくなってきており、今では片道2時間半かかる主治医への通院も体力的に持つようになってきました。

私が知っている限りの短い期間でこれほどまで回復してきていることの大きな理由が考えられるとすれば、
やはりまず薬が大きく減ったことが考えられるのです。

彼は長い間かかっていた主治医がおりました。
一番最後に入院していた病院でかかった主治医が、独立開業したのでそのままその先生にかかっておりました。
彼は先生の人柄に惹かれて、その先生が処方して下さる薬が自分に本当に合ったものだし、先生もよく自分の体調などを調べて出して下さっているものだから、
先生の出して下さったものは安全なものだし、飲んでいると調子もいいので減らすつもりもないし、このままでいいと言っていました。

しかし私は1日20種類も17年間に渡って飲まされて、そのままにされていることがとても気がかりでした。
何よりもいつもふらふらになりながら、見るからに病人でいつも眠いのかろれつも回らない状態で必死で作業所に来ていたのが今でも忘れられません。
会っている時は何とか持っているものの、家ではしんどくてほとんど寝たきり状態、具体的にどうしんどいのか聞いてみると、神経障害、強迫神経症、目が眩しい、
聴覚が過敏、頭痛、腹痛、吐き気などがあるということでした。
まさかその時はそれが薬の副作用だなんてことは思ってもみなかったのですが、その時は彼の障害の症状はこういう症状があると思い込んでいました。
それが精神障害そのものでなく、薬の副作用を疑ったのは、彼が新聞の片隅に内海先生の書かれた「精神科医はやりたい放題」という本があるのを見付け、
自分は読むのが大変なので私に代わりに読んで内容を聴かせてほしいということをお願いしてきたことからでした。
本を読ませていただき、ああやっぱりか・・と思いました。

精神医薬が開発されてまだそんなに歴史がない中で、そろそろ20年になろうとしているが、多剤服用した人たちが突然死んでいる、
そういう結果が伏せられ続けながら、実態として浮き彫りになってきていることを知り、
彼はもう17年間も1日に20種類もの薬を平気で飲まされている、彼はそのことを信頼している医者からの薬だと言って信じ切って飲んでいる、
そのことに大変な危機感を持ったことでした。
彼が内海先生の本を見付けたことは何かの縁だと思い、そこから一気に断薬治療の必要性を彼に諭して仕向けていったのでした。
彼が訴えてきているしんどい症状の大半は、薬による副作用が疑われる、今どんな薬を処方されて、どんな副作用があるのかすべて調べました。
依存症が疑われる薬だけでも9種類、睡眠薬だけでも6種類、こんなに飲んでいれば睡眠薬だけでも昼間起きているのが困難だろうと。

しかしなぜこれだけの量の睡眠薬が処方されているかというと、これは彼が教えてくれたのですが、
結局医者も家族も自分が暴れられると困るし、手がかかるので、眠らせておとなしくさせるために、大量の睡眠薬を投与して落ち付けさせるためなのだと言います。
このために頭が回らなくなり、日常生活がままならなくなり、とても人間としての生活ができる状態でなくなることで生きる権利が奪われていると言います。
そこまでされてなぜいくら人柄がいいからって、今の主治医にかかっている意味があるのか問いつめました。
私も診察にはついて行っていました。主治医の先生のことも知っています。
人柄のいい先生ではあるのです、でも彼が一生懸命状態を説明して薬を減らしてほしいとお願いしても、先生は減らすことをしませんでした。
理由は簡単です、減らして何か悪い状態になって、自分が訴えられるようなことになってもらっては困る、薬代や診察代で儲けているので患者がよくなって
通院が減ると言うのでは都合が悪いというところなのです。
このままでは彼は騙されたままこの先生や薬に殺される、先がない、この先生では薬を減らすということはできないということを見限って、
私は必死で断薬治療を行っている医療機関を通える範囲で探し回りました。
ここまでくれば彼も事の重大さに気付き、真剣に薬を減らして本当に元気になりたいと思い始め、遠いところでも通って断薬治療に臨むことを決意しました。

なかなか表向きには公開されていない断薬治療の機関なのですが、唯一それらしい機関をネットで見付け、彼にそれを知らせました。
薬を減らして元気になれるのなら、もう一度元気になりたい、元気になったらもう一度働いて自分の足で生きてみたい、
苦しんでいる仲間たちを助ける側に回って活動できるようになりたい、強い思いを持って今までかかってきた主治医の元を去り、
断薬治療を行っている医療機関に今年8月からかかって、20種類飲んでいた薬をいきなり13種類まで減らされて4カ月間ここまで状態を見ているところです。

いきなり7種類抜かれたので驚いたのですが、抜かれた当初4週間ほどは体調もすぐれず随分苦しんでいましたが、
これも治るための第一歩で、乗り越えなければならないと思っていたことだったのか、今までのしんどい様子から見ても意外にあっさり慣れた様子でした。
現在4ヶ月目なのですが、随分以前と様子が違っているのがわかります。
とにかくふらふらで病人のように顔色も悪く苦しそうで倒れそうだったのが、今は別人のようにまっすぐ立って、はっきり自分の意思を持っているのです。
何よりも今は会っている限り、病人にも障害者にも見えず、どこから見ても一人の年相応の人間なのです。
まだまだ療養は必要で、家にいる間は親との関係も悪く、決して環境的に良くない状況が続いているのですが、
それでも彼は自分の健康管理ができるようになり、ただ寝たきりだったのが今は同じように寝ることも健康のためのものでコントロールしながら、
自分に必要な睡眠時間を取って生活できるようになってきています。
7種類薬を抜かれただけで、これだけの効果が出てきているのです。
しかもたった4ヶ月で変わってきているのです。
これをどう見るでしょうか?

年明けからはさらに断薬が進むことになりそうです。
現在の状態で回復が見えてきていることに、一時は生きることにさえ絶望を抱いていた彼も、大きな自信と希望を持ち始めています。
今はまだ文字や文章を読むこともしんどく、パソコンもできる環境にないので、私が代わってここまで書いてきていますが、
さらに状態がよくなって、彼自身が皆さんと話ができるようになる日もそう遠くないと見ています。
  1. 2013/01/10(木) 21:34:43|
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障碍児の母親として


まだまだわからないことも多く、薬害の実態もつかめていません。
しかし、以前からおかしいと思っていたことが今はやっぱりおかしかったのだという思いでいっぱいです。

確かに今の支援というものは、医者の診断がなければ何も始まらないシステムです。
息子の支援も自閉症という診断がなければ受けさせて貰えないということに疑問を感じたものでした。
ただ、主治医の先生が「薬を飲んだから治るというものではない、風邪のようにかかったから治るというものではない」とおっしゃって、
薬をむやみやたらに処方する方針でなかったのが幸いでした。
今の診断基準がDSM4やDSM5に基づいているものではあることは私も知っています。
あの診断基準に著しい問題があることも大学に在学している時に一応学びました。
診断基準に頼り過ぎて、患者本人の様子を正しく判断しないで、その場で見ただけで、その基準にあてはめ、その時に語られたことだけを鵜呑みにして、
状態をカルテに書き記して行き、適当に診断を下して適当に薬を出している実態です。
今までいろいろな発達障害児という子どもたちに出会ってきていますが、ただ環境が合わないとか、しんどくて一生懸命人に伝えようと表現しているだけなのに、
それが症状だと勘違いされてきていることで、やたらと診断名がつくことでさらに環境が悪化していることもわかってきました。
その子どもたちが大人たちの都合で静かにさせようと薬が投与され、やがて飲み続けることでいろいろな副作用が出てきて、
それが環境のせいだとか、その子の障害の症状だとかいうことでさらに過剰に診断が続くわけです。
目で見ても様子が変わって、目がうつろになり、表情がなくなり、別人と化すようになっても大人たちは気付かないわけです。
しかしはたから見れば、それが発達障害の症状なのだ、いや、精神障害も二次的に起きてきているのだと片づけられてしまっていて、
その陰に誤診による過剰診断であったり、薬害で精神症状をきたしているという事実まではなかなか気付かれないんですよね。
それを仮に本人が訴えたとしても、なかなか信じてもらえない、精神症状が言わせていることだからということで片づけられているわけです。
大人の精神障害だと言われている人も、いったいどれだけの人が正しく診断をもらっているのでしょうか?
今の特別支援教育についても大きな疑問を持っています。
結局現場教師の指導能力がないことを棚上げにして、手のかかる面倒な子どもたちはあっちへやってしまう、
はみだしている子どもたちを特別扱いにしてはじき出すためにふるいにかけているだけに過ぎないと思うのです。
欧米で行われている特別支援教育というものは、何も障害を重視した特殊扱いではなく、むしろ大多数の子どもたちにない特殊な才能を持った子どもたちに対して、
整えられた環境でその力を存分伸ばして、ゆくゆくは国の先進的な技術に貢献させるために大切に育てて行くということに重きを置いているわけです。
日本でもそのように大多数の子どもたちにない特殊な才能に恵まれている子どもたちが確かに存在しているのです。
その子どもたちが生きづらさを抱えて狭い空間で耐えながら生きている現状です。
誰からも理解されず、苦しみ続けているのです。
しかしこういった子どもたちを国全体で大切に育てていけば、この国の景気や将来はどれだけ明るいものになっていくのだろうかと思うのです。
宝を大切にしなければ、どんどん国はだめになっていくと思うのです。
目先の富やできることにばかり目がいって、都合の悪いことは何でも診断任せにし、それですべて片づけてしまう、
その子の持っている可能性まですべて否定されて、日の目を見ることもなくなってしまうわけです。
子どもたちを間違った特別支援教育でだめにされたくない、私は親として最低限二人の息子のために守り抜いてきました。
あと1年ずつ、今年は高校、中学と最後の年になりましたが、二人とも生きづらさを抱えながらものびのびと自分に合った環境で、安心して暮らせるように、
あえてそれぞれ特別支援学校、特別支援学級での生活をすることを選んでいます。
特に通常学級に今年度まで在籍し、残りの1年を特別支援学級で過ごすことを選んだ下の息子については、通常学級での生活がもう限界でした。
息子は特別支援学級に行くことを最後まで拒んでいましたが、息子の精神状態を見てこれ以上ここに置いておくのは危険だと判断したのです。
頑張りすぎて精神状態がかなり不安定になっていることを担任が知らせてきたのですが、息子はその時の気持ちを私に伝えました。
私はこのままの状態が続けば、精神状態が持たなくなる、精神科に行くことだけは絶対に防止しなければならない、
そのために予防するために特別支援学級に避難することもありなんだということを話しました。
息子は年頃で友達や女の子の友達から自分が障害があるために通常学級での生活が無理で、来年から特別支援学級に行かなければならないということを伝えるのに、
とても悩んだ末、友達にはちゃんと話し、友達はみんな自分が決めた道なんだから、自分に合ったところで過ごすのが一番だと思うと言ってくれたそうです。
今は息子は特別支援学級に行くことを決心し、今年1年の過ごし方も考えて目指す高校に向けてじっくりと準備したいと言っています。
環境の悪いところで追われながら生活をしてきて、その結果精神状態が悪くなって、先生から精神科受診を言われ、
そこで本当に受診していたらどんなことになっていたかと思うのです。
それよりも息子がよくがんばったことをねぎらい、これからのことを考えてこれ以上精神状態が悪くなることを予防することをまず考えなくてはならない、
そのためには特殊扱いとされる特別支援学級にはじき出されてしまうのではなく、避難して自分本来の力を十分出させて1年を過ごさせる方がよほど意味のある1年だと思ったのです。
息子には本当に話すことに時間がかかりました。
でもこれでまた一段と親子でじっくりと向き合うことができたと思っています。
診断や薬で解決することは簡単です。
うちの場合、主治医の診察はあくまでも相談ではなく、経過報告です。
相談するよりも前に今現在どうすればいいか、まずは環境を整えることでほとんどが解決してしまうからです。
だから薬など一切いらなかったのだと思います。
ちなみに主治医はうちの子の事例を学会に報告している次第です。
診断で何もかもが片づけられてしまうことに疑問を呈して、診断以上に息子たちの変化や成長をまず見てほしいと思うのです。
本当に周りの環境一つでこんなにも変わっていくのかという実感は今、友人を見ていても痛感しています。
環境って本当に大切だなあって思います。
いい主治医に恵まれたこともよかったのだと思います。
この主治医にずっと育てられてきた上の息子は、主治医の紹介で切り絵という才能を見いだしてもらい、
今ではアーティストとして年間3~4回個展や作品展を開き、賞を取るまでになりました。
一足お先に就労先も決まり、切り絵や作品を作る工房での仕事に1年後就くことが決まりました。
目的のある人生を送れることは、人間として生きて行く中でどれだけ大切なことでしょうか?
私は日々そのことを考えさせられています。
  1. 2013/01/10(木) 21:46:34|
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優秀な医師


薬を使わない優秀な医師

長男の主治医の先生ですが、〇〇市児童福祉センター診療所発達外来の〇〇先生(児童精神科)です。
先生は以前1年間、〇〇にある発達クリニックの方に研修で出ておられました。
全国でも数少なかった児童精神科医の先駆的な時期から自閉症や発達障害、知的障害の医療に携わって来られました。
おそらく児童精神科医の中でも、かなりの変わり種だと思うのですが、本当にマイペースでいつもおおらかに子どもたちを受け入れながら治療や指導をしてくださってきました。
息子の今があるのも、そして、息子の特技をここまで伸ばしてくださって可能性を引き出してプロの手前まで育てるチャンスを下さったのも、すべてこの先生のお陰です。
大切なのはこの先生の、「子どもたちの今をありのままに受け入れる」という姿勢なんだと思います。
長い年月つきあっていかなければならない障害のこと、薬に頼れば薬漬けになってしまう、それは本人にとっても親にとっても不幸なことである、
それよりも落ち付いて過ごせる環境を整える方がまず大切なのだということをいつもおっしゃって来られました。
そのための部屋の構造化、目で見てわかる視覚支援、欧米でも使われているプログラムの導入など、本当に基礎的なところから教えていただいてきました。

こういう先生も中にはおられるんです。
本当に出会いだと思います。
小さな子どもたちが長い人生をこれから歩もうとしている大切な位置におられるだけに、
子どもたちが薬漬けになることだけは絶対にあってはならない責任重大なポストだと思います。
すべての児童精神科医が本当に責任を持って対応してくださることを願ってやみません。
そしてもう一つ大切なのは、このような子どもたちが18歳になれば主治医を精神科に引き継がれることになります。
必ず18歳以降も連携しながら子どもたちを終身見守って、決して間違った医療に進むことのないようにしていただきたいと思うのです。
長男も今年18歳です。
今年、次の主治医に引き継がれる話があると思います。
いろいろな不安がありますが、必ず先生がこれからも見守ってくださっていることを信じたいと思っているところです。
  1. 2013/01/10(木) 21:50:50|
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障害者の人権

私も昨年専門職資格を得て働こうと、あちこちの職場を受けて面接に行ったり、実際に働きに行ったりしていましたが、
そこでも精神医療の過剰投薬やいい加減な診察、福祉現場での専門職の意識レベルの低さや公然と行われている差別偏見に嫌気がさしてしまい、
どこに行ってもこの状態は同じなのだろうと諦めながら、次に自分はどこでどんな仕事がしたいのだろうかと昨年後半はしばらく仕事をせずにずっと考えていました。
現在は少しずつ自宅近くの児童デイケアセンターで臨時パート職員として働いていますが、今月はさらにヘルパー2級資格を取りに行き、
さらに幅広く障害者と接していけるように専門知識を持って働く準備をすることにしています。
しかし、私がこれからこの2つの資格を持って働くとすれば、やはり精神障害者の人権問題について働きたいと思っています。
もしそのようなことに取り組む専門機関が通えるところで立ち上がるのなら、そこで働きたいと思っています。
まだなかなか存在しませんが、むしろ司法の分野で弁護士などが動いているケースが多いようなので、福祉関係者がもっとこのことに関心を持っていただき、
連携して相談窓口を立ち上げたり、精神医療に対する疑問点や誤った概念を正していく啓発活動などを行って行けるような法人が全国に立ち上がっていくことを望んでいます。
欧米では日本で行われているような精神科医療が信じられないほどおかしいことが指摘されているのです。
しかし日本人の多くはそのおかしさに気付いていません。
現に私の周りでも、自分のかかった精神科主治医を信じ切って、治してくれる先生だと言って大量の薬を飲んだら治ると信じて飲み続けている知り合いが多数います。
私の実妹もその一人です。妹もうつで精神科にかかって長いです。幸い薬はたくさんは飲んでいませんが、依存性の高い薬を飲み続けています。
症状があるから飲まなければならない、症状を抑えている薬だから飲み続けなければならない、本当にそうでしょうか?
私が大切だと思うのは、今ずっと話を聞いている友人の彼を通じても言えるのですが、やはり話をじっくりと聞いてもらえる人が必要なのだと思っています。
話を聞いてもらうことで90パーセントぐらいは気持ちが落ち付いて気持ちの不安が解決するのだと言います。
私も気持ちに余裕がない時はなかなか落ち着いて聞くということができず、彼が不安になって状態が悪くなっている時に話を十分に聞くことができず、
よく喧嘩になっていますが、それでも話を聴くということで彼は落ち着いてくるのです。
薬がなくても、話を聞いてくれる人がいれば、彼らは孤独に陥らず、不安な気持ちになることもなく、つながりを持って生きているという感を持ち続けることができるのだと思います。
そういう原点を見失っている状態で、精神保健福祉分野でも患者に対して薬をちゃんと飲んでいるか、主治医の指示に従っているか、ということに固守して、
ろくに話を聴くということもせずにあちこちの機関に回したり、主治医の指示がないと自分たちの判断で動かすこともできないと言って、
患者の意思を全く無視してロボットのように動かしているのです。
しかも患者や利用者たちのことは、精神障害で物を言っているのだから、まともに話を聞いてはいけないといったことを実習生にまで吹き込んでいるわけです。
これだけでもどれだけの偏見を何も知らない一般人に植え付けているのかわかりません。
私もそれを本当にまともに信じそうになりました。
しかし、私が実習で出会った利用者たちがあまりにも普通に接してくださって、何も病気で物を言っているようには聞こえてこないし、
そのようにも見えなかったのでかえって驚いたほどでした。
それでいろいろ話を聞いているうちに、彼らの殆どが少し前まで健常で元気に外で働いていて、何か人間関係や環境などでおかしくなってしまい、
夜寝られなくなったり、不安になったりしたことで医者に初めてかかったことでもらった薬を飲み続けたり、病院に入院したりすることが増えてしまい、
本当の精神障害者にさせられてきているんだということがわかってきたのです。
中には元々発達障害があって、それが原因で人間関係がうまく保つことができず、親や家族からも理解してもらえず、精神障害に至っている人も半数近くいる状態です。

私には二人息子がいます。
長男は高校生で自閉症です。次男は発達障害で学習障害と軽度の自閉症があり、人間関係を築くのに難しさを持っています。
その兼ね合いで長年自閉症や発達障害について親の立場から勉強してきました。
そして、長男の子育ての頃にはまだ駆け出しだった自閉症や発達障害者への支援について、子育てと共に受けながらその現状を見てきました。
私が元々PSWを取ったいきさつは、私と同じように障害を持った子どもたちを育てている親たちが、実に多く自分の子どもの障害を受け入れることができず、
精神障害に陥っていることや精神医療に足を踏み込んで行っている現状を重くみて、以前私も息子の障害を受け入れられずに苦しみ続けた過去を持っていることで、
その悩みを共有できることは、同じ立場の親としてではなく、専門職の資格を持って親としての立場もわかるようになって、
少しでも助けることができればと思って目指したのです。
親に発達障害がある人も少なくなく、障害のある子どもたちを満足に育てることができない親も少なくありません。
また、障害のある子どもたちを抱えて苦しさのあまりに虐待をし続ける親たちも少なくないのです。
障害のある子どもが生まれたことで、父親が浮気をして家を出ていったケースもいくつも見てきました。母親が一人で障害のお子さんを育てているのです。
そういう母親たちがおかしくなりながらも精神科に足を運ぶ前に支援を受けられるところすらないのです。
私はそのことも本当に何とかしなければならないと考えています。
実習で行った作業所にも母親でありながら、子どもさんを児童福祉施設に入れて育ててもらうしかない状態に陥っている人に何人か会いました。
このお母さんたちが子どもたちを引き取って元の生活ができるようになるためにも、簡単にいい加減な診察が行われている精神科医療について見直す必要があると思っています。

また、自閉症や発達障害者の当事者の皆さんにもたくさん出会ってきました。
息子の関係で本当に多くの仲間たちに出会ってくることができたのも、何かの縁だと思います。
そこに家庭環境の大切さというものがその彼らの状態を大きく変えるのだということも痛感してきました。
彼らの居場所が家庭にない場合、彼らは本当に追い詰められて精神障害を発症することになります。
職場よりも家庭での理解がない場合の方が深刻だと言えるでしょう。
普通に学校も卒業して、一流企業で働いて、そこで挫折を味わっておかしくなる人もたくさんいるのです。
しかし家族はそれが受け入れられないし、にわかに信じることが到底できないわけです。
妹の病気のことでさらに見てきたのは、結婚事情になるとさらに深刻なのです。
お見合い市場には実にたくさんの自閉症や発達障害者の方々が登録をしているのです。
本人が登録しているというよりは、親が心配して登録をしているケースが多いと言えると思います。
釣り書きは立派ですが、会ってみるととてもじゃないけれど言葉が通じなかったり、常識概念がなかったり、コミュニケーション能力がないだけでなく、生活全般にかかる
一切の不自由さを抱えていることが短時間で見えるということなのです。しかしそれを親たちは気付いていないことがほとんどなのです。
お見合いの失敗や挫折を抱えさせることで本人たちは自信をなくすということの連続が続くことは、大きな負担につながっていくのです。
特に障害があっても恋愛というものにはとても多感な年ごろの人たちにとって、人との出会いがうまくいかないことは精神的にかなりのダメージを受けることになっていきます。
親たちがもっと自分の子どもたちの状態について勉強し、把握して知識を持って対処していくことが大切なのに、
世間体や体裁ばかりにこだわって、子どもたち自身の状態に立って考えるということができていないのが現状だと言えると思います。
精神障害者の家族会や障害者の親の会を見ていても、親たちは自分たちの子育ての苦労ばかりをねぎらうばかりで、子どもたちの大変さのせいで・・という気持ちで、
本当の意味で子どもたちのための親の会ではないのを感じます。
親たちが一生懸命自分の子どもたちの障害について考えたり、勉強したり、理解したりということがなかなかできていない会が多く見受けられます。
その結果、親の会に親が入っていても、子どもたちにとっては何もプラスになっていないといったことが多く、
私から見ても何のための親の会なのかわからないのです。
私は自分が障害児の親なので、どうしても親の立場から親の会も福祉の現場も当事者のことも見てしまうので、そこで葛藤がどうしても起きてしまいがちです。
だから、見えなくてもいいところまで見えてしまうところがあるのですが、反対に皆さんが見えないところも見えるのだろうと思っています。
精神の問題は本当に根深く、そして実に身近なところにまで及んでいるのがよくわかります。

  1. 2013/01/10(木) 22:06:02|
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