被害者にならない為の知識-精神薬を学ぶ-

精神医療被害連絡会 公式メールマガジンユーザーの為のブログです。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

総合病院での経過・退院

 平成19年12月師走。母は、もう1ヶ月以上も食事を摂っていない。ベッドの中で小さく痩せ細っていた。点滴だけの栄養しか摂取できない為、皮膚もカサカサになっていた。体中のいたるところに、床ずれができていた。特に腰のあたりは水ぶくれになる程ひどかった。ベッドに横になっても、椅子に座っていても、身体に物があたるところはすべて苦痛を伴った。私の介護は、すでに限界を超えていた。私は自営の為、時間は自由になったが、流石に、他人に委ねることを考慮していかないと、私が寝込む事は、絶対に許されなかった。
毎日、午後2時から6時まで母に付き添っていた。その後は、介護ヘルパーに一時間半、母を看てもらうことにした。寂しがりやの母にとっては、病院の個室は暗く冷たく、そして長い夜が始まる地獄の空間。わずか一時間半だったが、プロに毎日来てもらえることは、私にも精神的な安らぎを持つことができた。感情失禁という症状が出る母に付いていけなかったのか、2人いるヘルパーのひとりは、直ぐに辞めてしまった。残った一人のヘルパーはベテランで、老人の扱いには、実に手慣れていて助かった。また、介護している私にも心強いサポートをしてくれた。本当に感謝の気持ちでいっぱいになった。また、生前、父の無二の友人であった歯科医のC先生から、大阪からずいぶんと励ましのお電話をいただいた。子供の頃から姉妹のように育ってきた同じ歳の従姉妹は、家庭がありながらも時間を作って協力してくれたことが、私にとって大きな支えであった。

 病院のエレベーターにヘルパーと一緒に乗っていた時だった。中年の粋な着物を着ていたご婦人が、ヘルパーを見るや、いきなり声を掛けてきた。聞くところによると、中年女性の高齢のお母様を、そのヘルパーは、以前、介護していたとのこと。女性とは同じフロアーで下りた。突然、女性が「主治医がとんでもないのに当たった」と口走った。主治医の名前を聞くと、母の主治医と同じT医師だった。私は一瞬、良かった!家(うち)だけではなかった。と妙に嬉しかった。 女性に事情を聞くと、高齢のお母様は肺炎を起し、緊急入院したとのこと。しかし、末期の肝臓癌からいつ何が起きてもおかしくない状態であったと言う。それでも少量ながらも、お食事は美味しく食べられるとのこと。そこで彼女は、近くのK病院ならホスピスがあり、そこへ転院したいとT医師に相談したそうだが、T医師からは「ホスピスは若い人がはいるところ。認知症の症状がある高齢者が入るところではない。」と、冷たくあしらわれてしまったようだ。余程悔しかったのか、女性は涙声で話してくれた。

女性は、T医師から浴びせられた数々の暴言を、すべて記したノートを、私に見せてくれた。詳細にぎっしりと書かれていたのには、正直驚いた。T医師の心無い発言に傷ついた女性は、大泣きしながら病院の玄関を出たと話し、その時、守衛の男性が心配して声をかけてくれたそうである。更に、病棟では、高齢の男性患者に対してT医師は怒鳴りつけ、その患者は脅えていたところに女性は遭遇したとも話してくれた。T医師は、余程、高齢者がお気に召さないようだ。高齢者の介護に心身ともに疲弊している介護者の気持ちが、この若い医師には理解できないのであろうか・・・。いや、若い医師だけではなく、今まで、私が携ってきた医療従事者全員が、老人の心と体の変化をまったく理解していない。と自信を持って言いたい。
いつまでも老人を成人と思い込み、扱い方が分からないのである。
しかし、このような現状が変わらないことには、介護者は、心労から自殺を選択するという最悪なパターンからは回避できないと、私の経験上、強く感じた次第である。

 平成19年12月上旬。T医師から「胃漏」をするしか手段はないと説明を受けた。私は、その前に嚥下のリハビリを試してほしいとT医師に頼んだ。案の定、T医師は、嚥下のリハビリをしても無駄という返答をしてきた。患者に最善を尽くすのが医師としての勤めであろうと認識していた私はひどく立腹した。つくづく悪い医師に当たったものだ!もう医師など信用しない!その時「母は絶対私が治す!」と決心したのだった。母は弱っていたが、一日2時間、私独自の嚥下リハビリを考案し、母に色々な口の運動を試した。舌の運動、口を大きく開ける運動、声を出す運動、童謡も一緒に歌った。それだけではない、廊下は手を繋ぎながら歩かせた。病院の窓から外を眺めた時だった。母は「黒酢の酢豚が食べたいなぁー」「銀座で美味しい物を食べたい」と、覇気のない声で呟いた。「また一緒に銀座へ行って美味しい物を食べようね。」とにかく、前向きに物事を考えられるよう、私は言葉選んで母と会話をするよう心掛けた。
しかし、母は「もうあかん。」と、小さな声で呟く。私はそんな弱気になってしまった母を認めたくなかった。「全身全霊で治す!」その一途な気持ちを私は決して忘れず、ベッドに横たわっている母を、血行をよくするために、毎日、全身をマッサージした。20分の足湯も欠かせない。時より、母はしんどいと言って嫌がった。それでも、私は一日も休まずリハビリを続けた。家に帰ると私もヘトヘトふらふらで、食欲もないほど私は疲れ切っていた。

その一方で、体重27キロのやせ細った老いた母に対して、私はなんて過酷なことをしているのかと、自責の念に駆られた。しかし、最後の最後まで、私は諦めたくなかった。そんな中、母は自力で痰を出せるようになった。奇跡だ!奇跡が起きたのだ!嬉しくて、さっそく准婦長のところへ飛んで行き、そのことを知らせた。日々、私のリハビリを観ていたのか「娘さんには敵わない」と、微笑みながら一緒に喜んでくれた。喉の筋力が戻ってきたのだ。
「食事が食べられる!絶対に!」「そうだ!入れ歯を作ろう。」私は歯科の受診を看護師に頼んだ。しかし、一向に話が進まないというか、誰も動いてはくれなかった。再度、頼んでもずっと無視を続ける始末。
これが最後の手段と思い、私は医師2人に手紙を書いた。やっと、歯科の受診が受けられることになった。朝9時から歯科の受診ということで、私は8時半に病室に入った。眼に入ってきたのは、O医師が慌てた様子で母に吸引を施していた。近くに婦長も立っていた。母は真っ赤に顔を腫らし、息苦しそうにして咽ていた。婦長は、困った表情を浮かべ「すみなせん。ナースコールの元が外れていました。」「真に申し訳ありません。」と私に深々と謝罪してきた。
ナースコールの元は、しっかりと強くはまっているものであり、簡単に外れるものではない。夜中に、寂しさ、不安から母は頻繁にナースコールを押したのであろう。それを看護師の誰かが疎ましく思い、意図的に外した。非常に残念ではあるが、私はそう疑いを持ってしまった。朝、痰が喉に詰まった母は何度もナースコールを押したが、誰も病室に来なかった。たまたま、廊下を歩いている時に、誰かが苦しがっている母に気付いたのだろう。まさに間一髪だった。

結果、母は入れ歯を作ることが出来た。幸い歯科医には恵まれた。
私は胃漏を造接する前に、嚥下の検査をしてほしいと2人の医師に頼んだ。彼らは渋々と応じてくれた。祈るような思いでレントゲン撮影を行った。しかし、その頃から一日おきに戦振(ふるえ)の症状が出始めてきた母は、懸念していたように、その日は、戦振症状が出て不安は残念ながら的中した。レントゲン技師と一緒に影像を見た。母は緊張しながら、とろみの付いた飲み物をゆっくりと飲んだ。2回試してみたが、残念ながら飲み物は気管に入ってしまった。残念無念・・・。胃漏は余儀なくされてしまった。

 平成19年12月5日。胃漏造設の朝。母は胃カメラ室へと入って行った。
造設は簡単に出来るようで、30分程で終了した。その日の夕方から、白湯から始めた。口から薬は飲めないため、注射器を使い胃から消化剤、胃薬等を投与した。その後、T医師から、母の状態を観察してきた結果、パーキンソン病と診断したことを告げられたのである。それから、パーキンソン治療薬メネシット100gを朝夕投与がスタートした。即効性があるのか、翌日、「来年のお正月はホテルで迎えたい」と、母は予期せぬ明るい口調で話し始めた。ひどく驚いたのと同時に、天にも昇るほど嬉しかった。T医師からは「今日は最高ですね」と、珍しく機嫌よく私に話してきた。
これこそが本来の母の姿。私としては何ら不思議を感じなかった。
就寝前、安定剤としてジプレキサを処方されていた。深夜の巡回中、病室に入ると、大きな目を開け、一切、母は寝ていないと看護師から報告を受けた。
「大丈夫ですか?」と看護師は声をかけると「大丈夫。」と母は答えたと言う。

 病院は一般的には3ヵ月で退院させられる。その為、私は医療設備の整った老人施設を探し周ることにした。当時、中々、認知症や精神疾患、感情失禁の症状があるような老人を受け入れてくれる施設は殆んどなかった。あったとしても、すでに満室という状況。
区役所に相談し、信頼性の高い介護施設紹介センターを紹介もらった。色々と
検索して、ようやく母に適している施設を見つけることが出来た。年明けには入院して3ヵ月になる。2人の医師も、それを目処に処置しているというのが感じられた。夕方、2人の医師が病室を訪ねてきた。その時、入居する施設が見つかったことを報告した。入居審査のため、医療情報提供書と看護サマリーが必要なことを伝えたところ「家政婦の首を絞め、措置入院した人間が施設に入れるわけがないだろう。」薄笑いを浮かべたT医師は、私に対して屈辱的な言葉を浴びせてきた。そしてO医師と2人で笑いながら廊下を歩き去っていった。想定内とは言え、2人の乱暴な言動には、未だ私の脳裏から離れない。深い悲しみと強い憤りを感じた。母は措置入院ではなく、任意で入院したのだ。その直後、精神科医のB医師が病室に訪れた。私はB医師に、2人の医師から屈辱的なことを言われたことを話した。B医師は苦笑した。施設に入れるのならその方が良いと思うとB医師は返答してきた。
その30分後、2人の医師から話があると言って、私は別室に呼ばれた。そこにはB医師も同席した。B医師に忠告されたのであろう、2人の医師は別人のように真摯な態度で私に対応してきた。施設の概要を聞いてきたので、私は淡々と説明した。

 クリスマスも近くなってきた、母は胃漏を造設して1週間が経過した。
それこそ1滴の水も飲めない状況であった。嚥下性肺炎を避けるため、唾液すら飲むことは禁止されている。栄養分が体内に回ってきたせいか、心なしか母はしっかりとしてきた様子。病院のロビーでクリスマスの催しがあると看護師が教えてくれた。母は行きた言い出し、それもロビーまで歩いて行くというのだ。今まで車椅子を使用していたが、自分で歩くと言い、積極的になった母の姿を見て、看護師達も驚いていた。ロビーに着くなり、一番前に母は座ると意思表示をしてきた。元気だった頃の母と同じ雰囲気を感じることが出来、私にとって、ちょっぴり幸せな一時であった。

 平成19年も終わりに近づいてきた。その頃から、母は話す声が少し大きくなってきたことに、私は気付いた。さらに、また口渇を訴え始め、口の中に痰がいっぱいあると言い出した。「またか!」と、私は落胆した。口の中が気持ち悪いと訴える為、入れ歯を外し洗浄した。舌にはコケが生えないよう、専用ブラシで、常に口の中は清潔にしていた。母は自ら何も出来なくなっていたので、私が母の顔を洗顔し、化粧水、乳液を付ける毎日であった。洗髪は一日おきにして清潔に保った。

久々に入浴の許可が出た。看護師には頼まず、私が母を入浴させた。胃漏をして29キロと2キロは増えたものの、それにしても、母の体は骨と皮であった。しっかりとしていた体格だったのに・・・。言葉では表現できない程、悲しかった。悔しかった。なぜこんなことになってしまったのか・・・。
病院内には理美容があり、髪の毛のカットと顔剃りもした。
どんな病症にあっても、女性として母を精いっぱいきれいにしてあげることが、私の生きがいでもあり、そして、娘としての使命感を感じていた。
母には「食する」という、人間として唯一の楽しみを奪われたのだから。

 病室には小さな冷蔵庫がある。そこに、私は自分が食べようと思ってみかんを入れていた。食べ忘れたみかんを、翌日、冷蔵庫から出そうと開けて見ると、そこにはみかんは無かった。母は「私、夕べTVを観ながら食べたわよ」とさらりと言う。「みかんを食べた!?」私は直感的に、母は食べられるのだと思った。素人判断ではあるが、経菅食で栄養が付いて力が付けば、母は絶対に食べられるようになると確信した。T医師の説明では、最初の経菅食は朝昼夕で一日900カロリーと説明があった。状態が良くなったら、少しずつカロリーを上げると聞き、私は楽しみにしていた。そろそろ、カロリーを上げてもいいのでは?とT医師に打診してみた。すると予想もしない言葉が返ってきたのだ。
「寝たきりだから、1日900カロリーで十分」と言い出し、最初の説明とはまったく異なっていた。さらに、経菅食の液体が入った袋にはダイエットカロリーと記載されていた。体力を付け、太らなければならない母に、なぜ?いつまでもダイエットカロリーを続けるのか、私はまったく理解が出来ないでいた。再度、私は怯まず、カロリーをせめて1日1200にしてほしいとT医師に申し出た。すると、胃の壁に負担をかける等、なんやら難しいことを言い出した。
そもそも、T医師は、母を治療するという気持ちがないのである。
退院後、カルテ開示で分かったことだが、カルテには900カロリーから1350カロリーに上げたと記載されていた。明らかにこれは虚偽ではないか!!

水分量は1日200ccだった。ベテランのヘルパーは「あれでは水分量が少なすぎる。絶対におかしい。」と、私に強く主張してきた。おまけに、看護師は遺漏の液体をボウルに入れとろみを付け、そのままラップもしないで1時間放置したものを母の胃に注射器で注入していた。ヘルパーも呆れ果て言葉を失っていた。朝、病室を訪れた時だった。注射器から経菅食の液体が飛び散ったようで、病室の窓ガラスにいっぱい液体が付着し、その為に、部屋中が生ゴミのような悪臭が漂っていた。向精神薬の副作用により、感情失禁がある母は、看護師からは厄介者だったのであろう。それにしても、病人に対して、これ程までの酷い仕打ちは、一般常識として、到底信じられない行為である。
更に、ヘルパーの洋服にも経管食の液体を飛ばし、看護師から「あらごめんなさい」の一言だけだったと言う。クリーニングに出しても、油分が付着し取れないと溢していた。名の知れた大病院でありながら、極めて杜撰な衛生管理であることに、私達は強い憤りを感じた。

 平成20年の年が明けた。辛く寂しい元旦。病院に行く前に近くの神社へ参拝し、母のために病気平癒のお守りを買い、その足で病院へ向かった。
退院の日が1月13日と決まり、施設の審査もなんとか無事にパスをしたが、又、それまでもが大変だった。看護サマリーを確認したところ、事実とは全く異なった杜撰な内容が記されているあり様。お陰で、2回提出する羽目となった。
退院後、直接、施設へ入居することになる。不安ながらも母は楽しみにしていた。T医師からは、もう安定していると軽々しい診断をしていたが、毎日、母の状態を観ている私には、不安を拭い去れない状況であった。
漠然とではあるが、安定している日、又、そうではない日が、一日おきに症状が出て来たことに気付き、更に、母の声が異様に大きくなり始めたのを感じていた。呼吸器内科部長のP医師を先頭に回診の時だった。P医師は、母に何かを質問をしたが、きちんと答えることが出来なかった。その母に対して「だめだなこりゃ」と、部長医師までもが、患者に対して屈辱的な言葉を発したのだ。
それも親族である私が傍に付き添っていたにも拘わらずである。母がきちんと答えられなかった事に、若い数人の医師達が顔を見合わせて笑った。母が可哀想で哀れに思い、心の底から悲しい悔しい思いをした。母親の年代の人達は、若い頃、皆辛い戦争を潜り抜け、そして必死に頑張ってきたからこそ、今の日本があり、だからこそ彼らも大学の医学部で学ぶ事が出来たのだ。その必死に頑張ってきた人達を、なぜ嘲笑うことができるのだろうか? 一体、今の日本の教育はどうなってしまったのか? 両親からは、どんな教育を受けたのか?と、私は怒り心頭になった。
「医は心」と教えられてきた私には、この質の低い医師達の言動には、とても安心して身体を委ねることはできないと強く失望した。

退院まで後2日となった時だった。外出先に看護師から連絡が入った。
「お母様が一人でナースステーションに来たので、すぐに病院へ来てほしい。」という内容だった。老人の転倒を懸念するため、ベッドの脇にナースコールのマットが敷かれていた。頭の良い母は、それを避けて一人でナースステーションに行ったようだ。急いで私はタクシーを飛ばし、病院へ向かった。母は私を見るなり「あら、どうしたの?」と、何事もなかったかのように答えてきた。母に、なぜ一人でナースステーションに行ったか尋ねたところと「夜の食事(経菅食)が遅かったから、ナースステーションへ行って看護師に胃漏の食事を頼んだ。」と、はっきり返答してきた。前にも述べたように、母は栄養状態が良くなり、パーキンソン治療薬メネシットの効果なのかどうかは分からないが、脳内のドーパミンが活発になってきたのは確かなようだった。しかし、そんな母の様子に驚いたのか、O医師は、母の行動を抑制する注射をしたことを、後に看護師から説明を聞いた。しかし、その処置には、私は疑問を感じる。相変わらずその件に関しても、医師達からの説明は無かった。

カルテ開示で分かったことだが、この病院の精神科医であるB医師は、老人性うつ、不安障害、パニックと診断し、向精神薬を続行するとカルテに記載されていた。入院時、私は2人の医師には、母の症状は、向精神薬の副作用が原因であることをきちんと説明したにも拘らず、その事がまったく伝わっていなかったと理解できる。何度もB医師と面談したいことを主張したが、2人の医師や看護師に伝えても、一切、行動には移してくれなかった。
関連記事
スポンサーサイト
  1. 2012/07/23(月) 22:23:50|
  2. 投稿-薬剤性パーキンソニズム-
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<総合病院へ転院-またしても裏切り | ホーム | またしても転院-介護の日々->>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://mailmagazine997.blog.fc2.com/tb.php/10-32e434da
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。