被害者にならない為の知識-精神薬を学ぶ-

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初診-悪化-自殺未遂

平成16年6月、私の父は79歳でこの世を去った。まだ涙の乾かない翌年秋だった。2人いる兄の次男が、末期の肺がんで、余命半年と告げられた。
癌に効くというものがあれば、兄の為に色々なものを試した。しかし、その甲斐なく、翌年、平成18年5月、兄は55歳という若さで天国へと旅立った。

当時、母は78歳。無事、兄を天国に送ることができた。さすが、気骨のある年代と私は安堵した。初夏には、母と一緒に京都の祇園祭に行き、とても満喫した時間を久々に過すことができた。しかし、そんな夏の終わり頃、「食べられない。眠れない。」と、母は不眠や食欲不振を訴え、少しずつ顔がやつれはじめてきたのだ。息子の死、そして夏の疲れが出たのだろうと、私は簡単に考えていた。よもや、これから介護地獄がスタートするとは、当時、私は予想すらしなかったのである。

 平成18年9月。大病院で検査をしたものの、これといって悪い結果は出なかった。そんな中、知り合いから、都心の某クリニックを紹介された。うつ病から疲労した脳を休めるという診療をしているF院長がいるというのだ。正直、私は気が向かず反対したが、結局、長男夫婦が母をそのクリニックへ母を連れていった。また、母も早く元気になりたいと藁をもすがる思いだったのであろう。夕方、兄は、母を抱えながらクリニックから帰ってきた。兄曰く「疲れた脳を休めるために、寝ることをF院長から勧められた。」と言うのだ。診断は「燃え尽き症候群。」処方されていた薬を確かめると、一般的に処方されている安定剤と称するデパスだった。私も以前、気分がブルーで眠りにくい時に内科医から処方され、就寝前に1錠服用したことがあった。しかし、日中に服用すると眠気とだるさで全く仕事ができなくなるという始末。生前、高齢の父に寝る前に1錠服用させたが、朝になっても薬の副作用が残り、全身ふらついていたのを覚えている。体格のよい父ですら、高齢のせいかデパスの副作用が顕著にでたのである。薬の効き目が人一倍よい母に対して、F院長が処方した用量はデパス錠一日4回、朝昼夕、そして就寝前。他にレンドルミンを就寝前に1錠、朝夕パキシル2錠づつ、朝夕デジレル2錠処方されていた。

以前、婦人科医である私の主治医は老人にデパスを服用させてはいけないと、日頃から私は聞かされていた。母にも忠告していたのにも係わらず、すでにクリニックで出されたデパスを母は服用し、ぐったりとして家に戻ってきたのである。それからの母の状態は、昼夜逆転し、その上、意味不明な言動が出始めて来た。さっそく、F院長に私は連絡を取り、デパスは母には強すぎるため、就寝前だけの服用に変更したい旨を伝えたところ、すんなりF院長はOKを出した。

しかし、その後も母の状態は悪化するばかりである。母を連れ、兄夫婦と一緒に私も某クリニックを訪れた。F院長は、一見、穏やかで優しそうな人物という印象を持った。しかし、高齢で元気のない母に向かって「あなたのような人は牢獄が向いています。」「私のいるK大学の病院に来ますか?」「家族と一緒にいると、甘えが出てよくない。」と、医師としては到底信じられない言葉を母や我々家族の前で言い放ったのである。それも静かに受診している母に対してだ。母のことに無知な兄夫婦は、F院長の説明に従おうと私に言う。というか、老いた親が煩わしかったという言葉がふさわしいであろう。しかし、私は母を遠く離れる場所に移すことに猛反対をした。老人を家族から離す行為、慣れた環境から遠ざけることは、老人に対して決してプラスにはならない、精神的苦痛を与えるだけと判断したからだ。

平成18年10月。結果、F院長の紹介でS県のR精神科病院にしばらく入院することになった。精神科病院とはいっても、そこは都心の大ホテルのような豪華さで、実に心地よい空間がそこにはあった。マンダリンホテル級といっても過言ではないだろう。医師はスーツ姿、看護師はホテルのユニホームのようなお洒落なものを着用していた。スタッフの対応や食事は良かった。日本初のストレス専門病院として、誰でも軽く利用できる病院とホテルが一体化した精神科病院であった。
そこでは、向精神薬(抗鬱剤、安定剤等)を服用しながら、母はホテルライフのような穏やかな日々を過していた。しかし、周囲には娯楽や観るものなど全くなく、畑の中にポツンと楽山は立っていた。都心の華やかさが好きな母には、寂しさが増幅し、一層不安が強くなった。復帰して早く自宅に戻りたかったのか、母は広い廊下で腕を大きく振りながら歩き、一所懸命リハビリに励んでいた。1ヶ月が経過した頃、「私はもう大丈夫だから退院する。」と母が言い出した。R病院のN院長もOKを出した。

母と私は、同じマンションの上下別々に住んでいる。完治はしていないものの、以前よりは安定していた様子だった。11月下旬。区役所から、介護認定の調査員が来る日であった。認定の結果、要支援1であった。退院後、かかりつけ医として都心の某クリニックに再通院した。私は気が向かないため、兄夫婦が母を連れていく役目となった。しかし、また母の様子に変化が現れてきたのだ。まぶたは半分下がり、目はどんよりとしている。なぜか不安そうである。どうしていいのか、本人もわからないようだ。TV,新聞、雑誌等、何も興味を持たない、関心もない。ニュースを見て人が血を流しているのを見ると「怖い、怖い。」と目を背ける。焦燥感というのだろうか、部屋中を歩き回る母。「止まらない。私、ずっと歩き続けて止まらないのよ。」と能面のような無表情で母は口走る。そんな、母の姿を見て、私は、すでにどうする術もない。一体、どうしたらいいのか、今度は、私が錯乱状態に陥った。「もう、いやー。」と私は大声で泣き叫んだ。

平成18年師走、どんよりと曇った土曜日。持病の鼻炎を患っていた私は、ちょうど治りかかっていた頃だった。母が、夕方、某クリニックへ行くことになっていた。母に昼食を持って行き、そしてリビングに座った。相変わらず、母は食欲がない様子だったが、少しずつうどんを口に運んでいた。しかし、表情に覇気はなかった。私は上の自分の家に戻った30分後、私は母に用事を思い出し、母に電話をした。呼び鈴が鳴っているのに出ない。外出するはずもないのに・・・。階下の母の家に行った。リビングにあった昼食のうどんは殆んど食べていない様子。母は寝室のベッドで横になって、なんやら口走っている。なんだろうと思い寝室に入り私の眼に飛び込んできたのは、真っ赤な鮮血であった。腹部が全体血に染まっていた。割腹自殺だ!ナイトテーブルには、ハルシオン(睡眠薬)を多量に服用したと見られる跡、そして先端に血がべったりとついた包丁がそこにあった。

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  1. 2012/07/23(月) 22:08:49|
  2. 投稿-薬剤性パーキンソニズム-
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