被害者にならない為の知識-精神薬を学ぶ-

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介護の日々-見つからぬ出口

混乱の中、私は包丁をキッチンへと持って行った。そして119番で救急車を呼んだ。自分でも何がなんだかわからない状況で、頭が真っ白になり、身体が小刻みに震えていたのを覚えている。
救急車が到着し、一緒に刑事も数人来た。一人の刑事が、私にことの経緯を聞いてきた。まず、包丁のことを聞かれ、私はキッチンへ持って行き、包丁にべっとりと付いていた血を洗い流したことを刑事に告げた。その時、私は包丁を現場から動かしてはいけないことに気が付いた。動転して私は何も考えずキッチンへ持って行ったことを刑事に詫びた。その時、TVドラマで見ていた事情聴取を思い出し、もしかして私が?私が疑われているの? 私は、今までの経緯を淡々と刑事に語った。その時だった。兄が血相を変え到着した。救急隊は、母をタンカに乗せ運び出そうとしていたその矢先、今度は違う刑事が、事の経緯を私に尋ねてきた。兄は焦った様子で、「そんなことは後にしろ。早くエレベーターに乗れ。」と声を露にした。刑事は、「マンションの管理人がパトカーも一緒に来たことに不思議がっていますが、上手く話をしておきました」と私に囁いた。

 自宅近くのN病院に母は搬送された。多量に出血していたせいか、失血死の恐れがあるため、一刻の猶予も許されない状況であることを医師から告げられた。緊急手術が始まりICUの待合室で呆然と座っていた時だった。これまた違う刑事が病院に訪れ、再度、同じ事を聞かれうんざりした。
「ご協力ありがとうございました。」と言って刑事は帰っていった。
事情聴取3人目、これが最後だった。

 治りかけていた鼻炎が悪化したのか、私は体中がゾクゾクとして体を休めたかった。午後3時半頃、長男家族が病院に到着した。私は、いったん自宅に戻りベッドで横になり暫くした頃、兄から電話が入った。「おふくろ危ないようだ。覚悟しておけよ。」私はどん底に突き落とされたような気分になり、気が付いたら、柱にしがみつきやっと立っていた状態であった。体中が凍りつき目眩を起こし、ソファーに腰掛けた時だった。近所に住んでいる友人が私を心配して駆けつけて来てくれ、温かいお茶を入れてくれた。胃に暖かいものが入ったことで、私は精神的に落ち着きを取り戻していった。友人は、一緒に病院へ行こうと言ってくれたが、私は恐怖で拒んだ。「そんな弱気でどうするの。私も一緒に行くから。」と友人に説得され、一緒に病院へと戻った。甥姪は、長椅子にぐったりとしていた。30分後、母はオペ室から出てきた。人工呼吸機を付け、母の顔は雪のように真っ白であった。後に医師2人がオペ室から出てきて「助かりました。」という言葉を聞き、兄は「良かった!」と安堵した表情を浮かべた。2か所あった傷は深いかった為、出血が多く輸血を必要としたという。幸い、内臓には傷が付いていなかったことで、母の命は救われたと医師から報告を受けた。

 翌日、ICUにいる母を見舞った。酸素吸入をし、手には自殺防止の厚いミトンの手袋をしていた。母は私を見るなり恐ろしい形相で「なんで私を助けた!」と睨みつけた。ショックのあまり私は30秒程でICUを出た。助けたことを逆恨みされた私は、母に対して怒りと悲しみでいっぱいになった。ズンとした思い気持ちを背負いながら、翌日も病院へ向かった。母は身体を拘束されていた。腹部を縫合したばかりで身動きをしてはいけないのにも拘らず、足をバタつかせて困っている。と看護師から説明を受けた。さらに、深夜には奇声を上げ、周囲の重篤患者には迷惑をかけているのを知りつつも、私にはどうする事も出来なかった。相変わらず怖い形相をしている母。すると、いきなり悲しそうな表情を浮かべ「お願い!ここから出してちょうだい。」と私に向かって手を合わせる母の悲しい姿。「ごめん。それはできないの。」「傷口が固まるまで1週間我慢して」と説明して、私は後ろ髪を引っ張られる思いで病院を後にした。
翌日、病院へ向かった。母はベッドに座った状態で歯を磨いていた。能面のような無表情な顔つきで、それも、歯ブラシを裏側にしながら歯を磨いている母の姿はあまりにも悲しかった。 

 待ち望んでいた1週間が経過し、あと数日で平成18年も終わろうとしていた。結局、S県のR病院に再入院することにした。母は、N院長に「変なことをしてごめんなさい」と頭を下げ、その顔は青白く、体はやせ細り小さくなっていた。母をお風呂に入れた時だった。腰の周り、腕の周りには赤黒い多数の内出血の跡があり、拘束された時の痛々しい傷跡が残り、私は胸が締め付けられる思いがした。精神的に少しずつ安定してきたものの、最初の入院とは違い、母は本当の「うつ病」になってしまった。と私はそう感じた。天真爛漫で気丈な母がなぜこんなことに・・・。元気な頃の母を思うと、そのギャップは、娘として現実を受け止めることが到底出来ない、押しつぶされそうな感覚であった。私は焦った。毎日、1時間半掛けて母のいる病院に通い、母を外へ連れ出し、病院の周りを歩くリハビリからスタートした。明るい気持ちにさせようと、好きだった歌を一緒に歌いながら、お互い必死に努力し、時間をかけて鬱からの脱出を試みた。

夕食は、病院食をいつも一緒に食べることにした。その時、またもや母の身体に異変が出始めてきた。手が震えるため、箸やスプーンが持てないのである。それでも、必死に母は口に食べ物を運ぼうと努力したが「だめだ!」と途中で食べ物を溢してしまい、母は苛立ち「もう嫌!」と言ってスプーンを投げつける。母を宥めながら、私は母の口へ食べ物を運んだ。人の手助けがないと何もできなくなり壊れていく母。母はそんな自分を受け入れられないという精神状態に追い込まれていった。N院長からは、容態が回復に向かわない母を診て、「色々と薬を変えても、一向に良くならない。」と語るだけ。又、婦長からも「お母様は重症です。」と言われる始末。こんな状態が半年近く続いた。

 母を入浴させた後、また新たな戦いが始まった。下着の身に着け方が分からないというのだ。一度に3枚、ちぐはぐに下着を着ける母。私がアドバイスをしても一切、耳をかさなくなり、ひとりで困惑しながら、やっと納得するまで30分もの時間が必要になった。下着を重ね着し、その上、変な拘りを持つようになり、上下合わせて、下着だけで200枚以上はあった。それを全部広げだし、下着を一枚一枚チェックするのである。それをまた全部整理し、片付けるのが私の日々の仕事であった。

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  1. 2012/07/23(月) 22:11:25|
  2. 投稿-薬剤性パーキンソニズム-
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