被害者にならない為の知識-精神薬を学ぶ-

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有名H病院に転院-強引に退院

 平成19年5月、GWに差し掛かかり、自殺未遂から半年近くになろうとしていた頃、N院長から退院の話があった。とは言っても、母は完治したわけではない。以前、健常な時には48キロあった体重が、その時には39キロまで減少し弱々しくなっていた。相変わらず表情には笑みもなく、身体全身も固く強ばっていた。周囲の入院患者達も、一時的に安定し、退院をしたものの、すぐに病院に戻ってくるのが、そこではそれが普通に行われていた。しかし、その繰り返しというのは、患者本人だけではなく、携っている親族等、誰もが不安をいつも抱えている。

 結果、孫と一緒に住むということで、母は6月に退院し、長男夫婦と同居することになった。理由は、「娘が怖い」と、母は私から虐待を受けていることを、兄夫婦に伝えたというのだ。被害妄想が出始めていたことを分かっていながらも、私のショックは相当なもの。涙が止まらなかった。
後に分かったことだが、夜になると、毎晩、母は兄に「娘が怖いから助けて。」というSOSの電話を入れていたと言う。日中には「毎日来てね!」と、私の帰りを惜しむように、母はエレベーターの前まで見送りに来ていた。昼と夜では、全く違う母に豹変していたことが後で分かった。
母の介護を甘く考えている兄夫婦には、重病な母を当然看れるはずがなく、すぐに悲鳴を上げ、介護を投げ出すと私には先が読めていた。
案の定、1ヵ月半で事件は起きた。

 平成19年。忘れられない猛暑の8月。「お母さんが家政婦の首を絞めた!」と、弁護士から連絡が入った。幸い、家政婦は大事に至らなかった。聞くところによると、兄夫婦は、母を看れず、近くにマンションを借り、家政婦2人を雇い、母と3人で共同生活をさせていたとのこと。慣れない土地で、まったくの他人との生活など、老いて、尚且つ、重症な状態にあった母には、当然、不可能に決まっている。事件後、困り果てた兄夫婦は、また、某クリニックのF院長を訪ねたのだ。診断は「統合失調症。」 F院長から診断書を手渡された兄夫婦は、M区のJ病院へ行ったそうだが、暴行を起したということで、入院は門前払いをされたとのこと。結果、J病院から、都下のH病院を紹介され、入院することになった。と弁護士から説明を受け、早速、病院へ駆けつけた。驚いた事に、そこは俗にいうキチガイ病院だった。

 平成19年8月12日。H病院の薄暗い中廊下を歩き、エレベーターで最上階へ上がった。閉鎖病棟のため、病棟へ入るのに、ベルを鳴らし、身元を確認される。病棟に入った瞬間、なんとも言えない嫌な空気を感じた。母は、そこでは高額な個室に入っていたが、それにしても、S県のR病院とは違いひどい部屋であった。ユニットバスには洋式トイレが設置してあったが、段差があり危険なため、ユニットバスには鍵が掛けられ使用することが出来なかった。仕方なく廊下にある男女共同のトイレを使用するしかなかった。
母は、栄養失調から状態が悪化し、ベッドに横たわり点滴を受けていた。目はくぼみ頬がげっそりとこけ、見るも無残な姿だった。主治医としてA医師を紹介され、ソーシャルワーカーも含め、今後の治療方針を説明された。「これから患者に合う薬が出るまで、色々な薬を試します。」という極めて簡単な説明で終わった。今度は、H病院に足しげく通院することになった。

 隣の部屋には2年も入院をしている老婆がいた。新しい入院患者が気になるのか、廊下を歩くたびに、母の部屋の扉を開け覗き込むのだ。
実に気味が悪かった。また、時より、悲鳴のような声が何処からとなく聞こえてくる。不気味!!看病している私までも気分が悪くなった。向精神薬を投与されているせいか、患者の表情は、皆、能面の様な独特な顔つきをしていた。更に、向精神薬の副作用のせいか、あちらこちらで転倒する患者を目にした。
ベッドから頻繁に落ちる患者さんは、ここでは日常茶飯事。母も2回転倒し、一度目は鎖骨にひびが入り、しばらく腕を吊るしていた。2度目は後頭部を強く打ったが、幸いレントゲン撮影で異常はなく一応安心した。その時、母に不思議な現象が起こった。ベッドに横たわっていた母が、元気だった頃の母に戻っていたのだった。気のせいかと思ったが、話し方や声のトーンが元に戻っている。心配して一緒に、付き添って来た従姉妹もその光景には驚いた様子。私は「後頭部を強打したため、ショックで脳が元にもどったのかしら」と、従姉妹に冗談を話したぐらいであった。しかし、その期待も虚しく、翌日には、また不安状態の母に戻っていた。

 週2回、入浴の日であった。私は必ず母を入浴する前に病院へ着くようにした。というのは、この病院では入浴前に患者に検温チェックをしないのである。入浴の日、私は母に微熱があることに気付き、看護師から体温計を借りた。37.3度の微熱があり、それでも入浴させようとするのは、老人には非常に乱暴な行為である。老人にとって肺炎は怖い。病院には委ねることは出来ないため、入浴の良し悪しは、いつも私が決めることにした。

 9月中旬、病棟に入り、母の異様な姿が眼に入ってきたのである。ナースステーションで母は身体をひどく震わせ、看護師に支えられていた。困惑していた看護師から、薬の量を増やしたら、母の状態がおかしくなったと私に説明してきた。薬の名前を聞いたところ「リスパダール。」と答え、私には初めて聞く薬だった。気分を落ち着かせる薬だそうだが、母は、入院中とても静かにしていたのになぜ?と私はひどく疑問と不信感を病院に抱いた。しかし、ここから母と私の地獄の介護がまた新たにスタートしたのだ。

 病室に入ると、母は椅子に腰を掛けていた。それも頭を下げたままで、小刻みに身体が震えていた。その姿勢で一日中いると母は言う。呼吸が苦しいという母に、頭を上げるようにと私が言っても頭を上げられない。まぶたが完全に下がり、眼も開けていられない状態。唾液を飲むことも出来ず、口からダラダラと涎を流し続けていた。当然、食事など取れない状況にあった。日に日に母は痩せていき、等々入れ歯まで外れてしまった。これでは、咀嚼もできないと、私の頭の中は混乱と不安でいっぱいになった。身体全身が強張り、歩くことも出来ず、一日中、身体を震わせている母。
最悪な事に、私の名前すら思い出せなくなったのだ。私に向かって「あきちゃん、あきちゃん」と、父の妹の名前を言い続けている。私は胸が苦しくなった。
ひたすらは母「息苦しい。」「息が出来ない。」と、私に訴えてきた。医師に伝えても異常はないと答えるだけだった。もはやどうすることも出来ない状況であった。ナースステーションまで助けを求め、なんとか一人で歩いていったのであろう母は、「息苦しいのです。助けてください。」と必死に看護師に助けを求めているのにも拘らず、スタッフが全員が無視をしているところに私は病院に到着し、その光景を目の当たりにしたのである。
気が狂った老人の戯言とでも思っているのか・・・。ここでは、このようなことが当り前のように起きていた。なんて恐ろしいところだ!と私は思った。

 母は薬の副作用から口渇を訴え始めた。一日中、深夜にも病室の厨房に立ち、水を飲んでいると看護師から説明を受ける。病院は、部屋中が水浸しになったと言い、厨房の蛇口を外されてしまった。水分を多量に取っているせいで、母の足はひどく浮腫んでいた。毎日、足先から太ももにかけて、循環がよくなるように私はマッサージを続けた。ドリンク用として持参したミネラクウォーターは、すべてのペットボトルのフタを外し、水は半分まだ残っている状態で部屋中に散乱していた。ペットボトルの水を飲むことすら、なぜか母は怖がった。挙句の果て、母は廊下にあるトイレの水を飲み始めたのだった。

 母の異変で、周囲の患者の人達も心配してくれた。副作用からであろう、皆、能面のような顔つきをしながら「お母さん大丈夫?」「お母さん苦しそう。」と私に近づいて呟く。なによりも、隣の病室にいる不気味な老婆までが私に近づき「お母さんを助けてあげて。」と意思表示してきたのだ。これには流石の私も驚いた。今まで一度も声を発生したことがないのに・・・。
さらに、いつもお部屋のお掃除に回ってくる叔父さんが「お母さん、落ち着いていて元気だったのに、なぜこんなことになったんだ!」「お母さん、トイレで水を飲んでいるよ。」「ここの患者さんは、口が渇くみたいで、他の階でも若い人達がトイレで水を飲んでいるんだ。」と、お掃除の叔父さんは悲しい表情を浮かべ、正直に話してくれた。

 この病院にいると母は殺される。一刻も早くこの病院から出そうと、私は決心した。転院のための病院探しには実に苦労した。どこの大病院も、精神科病院からの転院は断られる始末だ。都内に老人専門の病院を2件見つけ、藁をもすがる思いで、K区のJ病院とI区のT病院に電話をした。いずれも3ヵ月待ちと言われたがキャンセル待ちを予約した。H病院の主治医にセカンドオピニオンを希望するということで、診断書を依頼した。診断書には、「色々手を尽くしたが回復は不可能」と記載されていた。

 平成19年9月下旬。T病院から、キャンセルが出たと連絡があった。予想していたより早かった。母は、微熱がずっと続いていたため、私が母の代理で精神科を受診した。外来のY医師に、今までの母の経緯を詳しく説明した。Y医師は親身に私の話に耳を傾け、「それは薬の副作用ですよ。」と正直に答えてくれた。薬の処方の多さや、副作用に疑問を抱いていた私は、その時「やっぱり!」と確信した。Y医師は「主治医の先生に報告書を書きますから、もう一度主治医と話し合ってください。」と、親切な対応をしてくれた。嬉しかった。やっと本物の医師に出会えたと、光が見えたような気がした。不思議だが、Y医師なら母を絶対に治してくれると、その時、なぜか私は直感した。
残念ながら、病室は満室で直ちに転院は難しいと断られたが、取りあえず、手順を踏み、H病院で主治医に相談することにした。

 H病院での病室。主治医のA医師が母の病室を訪ねて来た。私の顔を見るなり「あんた行ったの?」と、不機嫌そうな表情を浮かべ言葉を発した。それ以外はなにも話さず、嫌な空気が流れる。Y医師からの報告書が、余程お気にめさなかったようである。報告書には『ご家族のお話によれば、以前より特に流涎、仮面様顔貌、動作緩慢が増えたことを心配されておられました。ご本人を診察していないため断定できないと断った上で、薬剤の影響もありうると説明しましたが、一方で現在発熱が続いており、誤嚥性肺炎や、その基礎となりうる認知症の有無も含め、もう一度主治医と相談されるようお勧めしましたところ、納得されました。』という内容であった。A医師は非常勤で、週2回は、この病院へ出勤する。私は、毎日、病院へ来ているが、A医師が母をきちんと診察している姿を見たことは一度もなかった。
一患者の家族に対して、医師という責任ある立場でありながら、なんという稚拙で無礼な対応であろうか! 私は呆れて言葉も出なかった。その頃、凶暴性がやや出ていた母は、病室を出るA医師に対して「バカヤロウ-」と言い放った。母の暴言には驚いたが、私の言いたいことを母は代弁してくれたと褒めてあげた。

 私は、顧問弁護士に、母の事を相談した。すると、顧客に良い精神科医がいる聞き、早速、L区の某クリニックのE院長を紹介していただいた。
書物でE院長のプロフィールを読んで私は感動した。大学の医学部に在学中、同級生がうつ病でデパートの屋上から飛び降り自殺をした。その同級生は自死する前、当時、同級生であったE院長に遺言書を残したというのだ。「うつ病患者の苦しみ、そしてその遺族の悲しみを君なら理解できる。精神科医になって苦しんでいる人々を助けてほしい。」という内容だったそうである。その重い十字架を背負ったE院長は精神科医という職業を選択し、さらに宣教師としても従事した。自死遺族会グリーフケアという団体を結成し、頻繁に会合を開き、今尚、人助けに力を注いでいる。

 E院長に、今まで母に処方されてきた向精神薬の薬歴を観てもらった。
「高齢者に対してこんなに沢山の薬を与えてはいけない。」と、E院長は頭を抱え、驚いた表情を浮かべた。しかし、それよりもE院長は私の体を心配してくれた。当時、私は心身ともにボロボロになっていた。夜は、毎晩、眠剤がないと不安で眠れなかった。母の介護に関して、兄夫婦とは見解の相違から、一切、私とは没交渉になっていた。そんなこともあり、E院長の計らいでクリニックのデイサービスをしている精神福祉士を私に付けてくれたのだ。今まで、ずっと母を一人で介護を続けてきた私にとって、とても有難く感謝の気持ちで一杯になった。

 私は、早急に、母をあの恐ろしい病院から連れ出す定案をした。入れてくれる病院がなかったら、私が家で母を看るという覚悟を決めたのだ。主治医としてE院長に家に往診に来ていただくようお願いした。とにかく一か八かだった。H病院の主治医とソーシャルワーカーに、母を退院させ家で看ることを伝え、退院に向け準備をすることにした。今迄、ここまで強行に出た家族はいなかったようで、病院側はとても驚いていたことを、後で知る事になった。
退院の前日、従姉妹も交え、私と一緒にA医師からの説明を聞くことにした。「お母さんに色々薬を試しましたが、すべて効きませんでした。」「お母さんはうつ病ではありません。」と驚き発言。精神疾患ではない事を告げた直後、A医師は「あんなに悪くなって大変でしょうから、最悪な時の頓服も出しておきましょう。」という始末。退院時に処方された薬は、日常の薬と頓服をも含め、山のように手渡されたのである。うつ病ではないと診断されたのにも関わらず、なぜ?多量の向精神薬を処方されなければならないのか・・・。すでに、A医師には信用をまったく失っていたので、私は何も反論する気すらなかった。

 平成19年10月10日。母を移動するため、タクシー会社からリクライニングシート付きの車を頼むことにした。精神福祉士の人が手伝いに来てくれた。道中、母は息苦しいと口走っていたが、高速を使い45分程で家に到着した。久々の我が家。母を父が祭られている仏壇へ誘導した。まぶたが下がり覇気のない顔。母は、震える両手を仏壇の前で合わせていた。父はどんな想いで、母のこの姿を見ているのだろうと思うと、実にやるせない気持ちになった。

 久々、家に戻った母は安心したのか、私の部屋のソファーベッドで熟睡した。
痩せて入れ歯を装着できなくなった母の為に、私は苦心しながら夕飯の準備をした。ほんの少しではあったが、美味しいと言いきざみ食を口にした。H病院での不安そうな母の顔とはまったく違い、穏やかな安堵の表情を浮かべていた。翌日、午後から、精神福祉士の方が、様子を見に家を訪ねて来てくれた。私は2時間という決められた時間内で、食料の買出しに出かけた。帰宅後、やはり母は口が渇くせいか、飲み物を頻繁に要求してきたと福祉士から伝えられた。母は、不安で福祉士にずっと寄り添っていたとのこと。なんとか一日が終わった。
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  1. 2012/07/23(月) 22:16:14|
  2. 投稿-薬剤性パーキンソニズム-
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